`《ちしる》循《めぐ》らずして、温き血|環《めぐ》れるを人に示すべきなれ、我が世馴れたることのベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]にもフエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]にも劣らぬを示すべきなれ。兎も角も一たび此|場内《にはぬち》に入りて、美しき女優の面《おも》を見ばや。若し興なくば、曲の終るを待たで出でんも妨《さまたげ》あらじとおもひぬ。入場劵を買ふに、小き汚れたる牌《ふだ》を與へつ。我觀棚《さじき》は極めて舞臺に近き處なりき。
 此劇場には高下二列の觀棚あり。平間《ひらま》をばいと低く設けたり。されど舞臺の小なること、給仕盆の如しとも謂ふべし。あはれ、此舞臺にいくばくの人か登り得べきとおもふに、例の小芝居の習とて、中むかしの武弁《ぶべん》の上をしくめる大樂劇の、行列の幕あり戰鬪の幕あるものをさへ興行するなるべし。觀棚は内壁の布張汚れ裂けて、天井は鬱悒《いぶせ》きまで低し。少焉《しばし》ありて、上衣を脱ぎ襯衣《はだぎ》の袖を攘《から》げたる男現れて、舞臺の前なる燭を點《とも》しつ。客は皆無遠慮に聲高く語りあへり。又|少時《しばし》ありて、樂人出でゝ奏樂席《オルケストラ》に就きぬ。これを視るに、只是れ四奏の一組なりき。彼と云ひ此と云ひ、今宵の受用の覺束《おぼつか》なかるべき前兆ならぬものなけれど、われは猶せめて第一折を觀んとおもひて、獨り觀棚に坐し居たり。
 場内の女客に美しきはあらずやと左を顧み右を盻《み》しかど、遂にさる者を認め得ざりき。忽ち隣席に就く人あり。こは嘗て某《なにがし》の筵《むしろ》にて相見しことある少年紳士なりき。紳士は笑みつゝ我手を握りて云ふやう。こゝにて君に逢はんとは思ひ掛けざりき。君はその邊の消息を知り給ふか知らねど、かゝる處にては、折々面白き女客と肩を並ぶることあり。かくて薄暗き燈火《ともしび》は、これと親む媒《なかだち》となるものなりと云ひぬ。紳士の詞は未だ畢《をは》らぬに、傍より叱々《しつ/\》と警《いまし》むる聲す。そは開場《ウヱルチユウル》の曲の始まれるが爲めなりき。
 音樂は心細きまで微弱なりき。幕は開きたり、只だ見る、男子三人女子二人より成れる一《ひと》群《ホロス》の唱和するを。その骨相を看れば、座主《ざす》は俄に※[#「田+犬」、第4水準2−81−26]畝《けんぽ》の間より登庸し來りて、これに武士《もののふ》の服を衣《き》せしにはあらずやと疑はれぬ。隣席の紳士は我を顧みて、餘りに力を落し給ふな、單吟《ソロ》には稍※[#二の字点、1−2−22]觀る可きものなきにあらず、此組にも好き道化師《プルチネルラ》あり、大劇場に出だしても恥かしからぬ男なりなど云ふ。この時今宵の曲の女王は、侍姫《じき》に扮せる二女優と共に場に上りぬ。紳士眉を顰《ひそ》めて、さては女王は渠《かれ》なりしか、全曲は最早一錢の價だにあらざるべし、あはれジヤンネツテ[#「ジヤンネツテ」に傍線]ならましかばとつぶやきぬ。
 女王は身の丈甚だ高からず、面《おもて》の輪廓鋭くして、黒き目は稍※[#二の字点、1−2−22]|陷《おちい》りたり。衣裳つきはいと惡し。無遠慮に評せば、擬人せる貧窶《ひんく》の妃嬪《ひひん》の裝束《さうぞく》したるとやいふべき。さるを怪むべきは此女優の擧止《たちゐ》のさま都雅《みやびやか》にして、いたく他の二人と異なる事なり。われは心の中に、若し少《わか》き美しき娘に此行儀あらば奈何《いか》ならんとおもひぬ。既にして女王は進みて舞臺の縁《ふち》に點《とも》し連ねたる燈火の處に到りぬ。此時我心は我目を疑ひ、我胸は劇《はげ》しき動悸を感じたり。われは暫くの間、傍なる紳士に其名を問ふことを敢てせざりき。われ。此女優の名をば何とかいふ。紳士。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]といへり。歌ふことを善くせぬに、その顏ばせさへこれが償《つぐのひ》をなすに足らねば、顧みる人なきもことわりなり。此詞は句々腐蝕する藥の如く我心上に印せり。われは瞠目枯坐して心《しん》を喪《うしな》ふものゝ如くなりき。
 女王は歌ひはじめき。否、こはアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が聲ならず。微かにして恃《たのみ》なく、濁りて響かず。紳士。この喉には些《いさゝか》の修行の痕あるに似たれど、氣の毒なるは聲に力なきことなり。われ。(騷ぐ胸を押し鎭めて)さきには羅馬《ロオマ》、拿破里《ナポリ》に譽《ほまれ》を馳せたる西班牙《スパニア》生れの少女《をとめ》ありしが、この女優は偶※[#二の字点、1−2−22]《たま/\》其名を同じうして、色も聲もこれに似ること能はざりしよ。紳士。否、この女優こそはその名譽あるアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]がなれる果《はて》なれ。盛名一時に騷ぎしは七八年《なゝやとせ》前のことなるべし。當時は年もまだ
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