閨B岸區《リド》の漁者の遺族は我がために作りてポツジヨ[#「ポツジヨ」に傍線]に托し、ポツジヨ[#「ポツジヨ」に傍線]はマリア[#「マリア」に傍線]にあづけ置きぬ。ある日マリア[#「マリア」に傍線]は我が往きて訪ふを待ちて、美しく愛らしきものならずやと云ひつゝ我手にわたし、ロオザ[#「ロオザ」に傍線]夫人は傍より、他日おん身の許嫁《いひなづけ》の妻に掛けさせ給ふべき品なり、作りし人もその心ありしなるべしと詞を添へつ。われは料《はか》らずも眉を蹙《せば》めて、我に許嫁の妻なし、未來にも亦さる人なからんと叫びぬ。マリア[#「マリア」に傍線]の面には失望の色をあらはせり。そはこの贈《おくりもの》を取次ぎて我を悦ばしめんことを期《ご》せしが故なり。われは手に瓔珞《くびたま》を捧げて、心にこれをマリア[#「マリア」に傍線]に與へんことを願ひぬ。マリア[#「マリア」に傍線]の顏の紅を潮《さ》せしは、我心を忖《はか》り得たるにやあらん、覺束《おぼつか》なし。

   末路

 とある夕わが爲換金《かはせきん》を取扱ふ商家を尋ねしに、主人の妻のいふやう。近頃はおん身の來給ふこと稀になりぬ。そは市長《ボデスタ》の許に往き給ふことの頻なるが爲めなるべし。我家にはマリア[#「マリア」に傍線]の如き美しき人あるにあらねば、誰かおん身の足の彼方《かなた》にのみ向くを理《ことわり》ならずとせん。マリア[#「マリア」に傍線]は今ヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]第一の美人にして、御身はヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]第一の才子におはすれば、彼此《かれこれ》似つかはしき中なるに、マリア[#「マリア」に傍線]が所有なりといふカラブリア[#「カラブリア」に二重傍線]の地面はいと廣しといへば、おん二人《ふたり》の生計《たつき》さへ豐かなることを得べきならん。御身若し早く心を決めて誓約をだになし給はゞ、ヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]全市の男子一人としておん身を羨まざるものなからんといふ。われ。いかなれば我をさまで利己心多きものとはし給ふぞ。わがマリア[#「マリア」に傍線]を尊むは、あらゆる美しきものを尊む情に外ならず。これをしも愛と謂はゞ、何人かマリア[#「マリア」に傍線]を愛せざらん。縱《たと》ひわれマリア[#「マリア」に傍線]を愛せんも我心は又決してその財産に左右せらるゝことなかるべし。主人《あるじ》の妻。否、さてはおん身はつまさだめするものゝ先づ心得べき事あるを知り給はぬなるべし、粮廚《かてくりや》に滿ち酒|窖《あなぐら》に滿ちて、始て夫婦の間の幸福は全きものぞ。古き諺《ことわざ》にも、生活《なりはひ》を先にし戀愛を後にすといへるにあらずやと云ひぬ。
 人の我上をかくおもへる、既に我が忍ぶべきところならず。況《いはん》や面《まのあた》りこれを語るをや。我は喜んで市長一家の人々と交れども、此の如き嫌疑を受くることを甘んじて、猶その家に出入すべくもあらず。今宵も市長の家を訪ふべかりし我は、歩を轉じてヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]の狹き巷《こうぢ》をさまよひめぐりぬ。相向へる二列の家は、簷《のき》と簷と殆ど相觸れんとし、市店《いちみせ》の燈《ともしび》を張ること多きが爲めに、火光は到らぬ隈もなく、士女の往來織るが如くなり。渠水《きよすゐ》を望めば、燈影長く垂れて、橋を負へる石弓《せりもち》の下に、「ゴンドラ」の舟の箭《や》よりも疾《はや》く駛《はし》るを見る。忽ち歌聲の耳に入るあり。諦聽すれば、是れ戀愛と接吻との曲なり。迷路《ラビユリントス》の最も邃《ふか》き處に一軒の稍※[#二の字点、1−2−22]大なる家ありて、火の光よそよりも明かに、人多く入りゆくさまなり。こはヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]の數多き小芝居の一にして、座の名をば聖《サン》ルカス[#「ルカス」に傍線]と云へりとぞ。大抵|樂劇《オペラ》の一組ありて、日ごとに二曲を興行すること、拿破里の「フエニチエ」座に同じ。初の一曲は午後四時に始まり六時頃には早く終り、次なる曲は夕の八時より始まる。素《もと》より精《くは》しき技藝、高き趣味をこゝに求むべきにはあらねど、些の音樂に耳を悦ばしめんとする下層の市民の願をばこれによりて遂げしむることを得べく、又旅人などの消遣《せうけん》の爲めに來り觀るも少からざるべし。觀棚《さじき》の料《しろ》は甚だ廉《やす》く晝夜とも空席を留めぬを例とす。
 招牌《かんばん》を仰げば、「ドンナ、カリテア、レジナ、ヂ、スパニア」(西班牙《スパニア》女王カリテア[#「カリテア」に傍線]夫人)と大書し、作譜者の名をばメルカダンテ[#「メルカダンテ」に傍線]と注せり。われ心の中におもふやう。かゝる時にこそ、我脈絡にカムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]の野なる山羊の乳
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