vに傍線]。ヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]第一の美人なり。市長《ボデスタ》の姪なり。一の老婦人ありて我に歩み近づきて、君は最早我を忘れ給ひしか、そは理《ことわり》なきにあらず、唯だ一たび相見てより後、年あまた經ぬればと云ひつゝ、我に手をさし伸べたり。われ、一たび相見しことある御方とは知れど、何時何處にての事ともおもひ定め難しといふに、老婦人、我|同胞《はらから》は醫師《くすし》にて拿破里《ナポリ》に居たり、君はボルゲエゼ[#「ボルゲエゼ」に傍線]家の公子と共に弟を訪《おとな》ひ給ひぬといふ。われ。まことに宣給ふ如し。こゝにて逢ひまつらんとは思ひ掛けざりしなり。老婦人。拿破里の弟は妻なかりし故、われに家政をとりまかなはせしに、四とせ前にみまかりぬ。今はこゝなる兄の許に住めり。我姪はその性《さが》人と殊なれば、一たび家に歸らんといひ出でゝは、思ひ留まるべくもあらず、又こそ御目にかゝらめとて、老婦人は出で去りぬ。ポツジヨ[#「ポツジヨ」に傍線]は再び我にさゝやくやう。かへすがへすも幸ある友よ。市長の妹の君が相識にて、君と再會を約せしは願ひてもなき事ならずや。ヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]の少年紳士にして君を羨まぬものはあらじ。人々は遠距離にありてだに心《むね》に傷《て》を負へるを、君は敵の陣地に入ることなれば、注意して自ら護《まも》り給へといふ。市長の姪の去りしには、座客氣付きぬれど、皆その心の優しきこと姿の美しきにかはらずとて、讚め稱へて已まざりき。
 善行は心に光明を與ふ。われは久しぶりに心の中の快活を感じて、ポツジヨ[#「ポツジヨ」に傍線]と杯を※[#「石+並」、第3水準1−89−8]《うちあは》せ、此より兄弟の如くならんことを誓ひぬ。家に歸りしは夜半なりき。直ちに眠に就《つ》くべき心地ならねば、窓に坐して清風明月に對せり。渠水《きよすゐ》波なく、古宮空しく聳ゆる處、我が爲めには神話中の夢幻界を現じ來れり。我は兒童の如く合掌して祈祷したり。父よ、我諸惡を免《ゆる》せ。我に氣力を賦《ふ》して善良の人たることを得しめよ、我をして些の羞慚《しうざん》の心なく、彼尼院中なるフラミニア[#「フラミニア」に傍線]を懷ふことを得しめよ。
 翌朝は身極めて爽快なりき。我は舟人を喚びて市長《ボデスタ》の家に往くことを命ぜしに、舟人そのオテルロ[#「オテルロ」に傍線]宮(パラツツオオ、ドテルロ)なるを告げたり。オテルロ[#「オテルロ」に傍線]とは彼シエエクスピイア[#「シエエクスピイア」に傍線]の戲曲ヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]の黒人の主人公にして、市長の家は其舊館なれば、英吉利人は此地に來る毎に必ずこれを尋ぬること、マルクス[#「マルクス」に傍線]寺又は武庫に殊ならずといふ。
 市長の一家は歡びて我を迎へ、主人の妹なるロオザ[#「ロオザ」に傍線]夫人は、亡弟の記念《かたみ》と拿破里の繁華とを語りて、我に再遊の願の甚だ切なるを告げ、主人の姪なるマリア[#「マリア」に傍線]は我をして復たララ[#「ララ」に傍線]の姿を見、フラミニア[#「フラミニア」に傍線]の才《ざえ》を見る心地せしめき。マリア[#「マリア」に傍線]とララ[#「ララ」に傍線]との相|肖《に》たるは驚くべき程なり。さるにても身に襤褸《ぼろ》を纏ひて、髮に一束の董花《すみれ》を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]みし乞丐《かたゐ》の女の、能くヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]第一の美人と美を※[#「女+貔のつくり」、138−上段−6]《なら》ぶるこそ不思議なれ。是より我は頻りに此家に往來して、ロオザ[#「ロオザ」に傍線]夫人の爲めにダンテ[#「ダンテ」に傍線]の神曲、アルフイエリ[#「アルフイエリ」に傍線]、ハコリイニイ[#「ハコリイニイ」に傍線](並に詩人の名)等の集を朗讀せり。ポツジヨ[#「ポツジヨ」に傍線]もわが紹介によりて市長の常の客となることを得たり。
 即興詩人としての我名は漸くヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]の都に傳はり、美術會院(アカデミア、デル、アルテ)は一日我を招きて技を奏せしめき。われはダンドロ[#「ダンドロ」に傍線]のコンスタンチノポリス[#「コンスタンチノポリス」に二重傍線]征服とマルクス[#「マルクス」に傍線]寺の銅馬《どうめ》とを題として即興の詩を歌ひ、會員證を授與《さづ》けられたり。(ダンドロ[#「ダンドロ」に傍線]はヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]の大統領《ドオジエ》なりき。千二百三年コンスタンチノポリス[#「コンスタンチノポリス」に二重傍線]を征服す。即ち所謂第四次十字軍なり。)されどその頃我は別に一物の此會員證より貴きものを得つ。そは極めて細かなる貝を絹紐もて貫きたる瓔珞《くびたま》な
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