閨A此席にありとさゝやきしが、會※[#二の字点、1−2−22]《たま/\》婦人數人と老いたる貴族|某《それ》との坐客を代表して、我に再演を請ひたりしが爲めに、われは友と多く語を交ふること能はざりき。此請は我が預め期したるところなりき。われは好機會を得て、昨夜《よべ》の暴風と難船との事を敍し、前に友の雄辯もて遂ぐること能はざりしところをも、詞章もて遂げんと期《ご》したりしなり。
我はチチアノ[#「チチアノ」に傍線]の贊といふ題を得たり。即興はおもふまゝなる喝采を博して、古名匠の贊はわが自贊となりぬ。されどチチアノ[#「チチアノ」に傍線]は海を畫く人ならざりしが爲めに、われは此題を利用して我志を果すに由なかりき。
主婦は我に近づきていふやう。君の如く自家の技藝もてかくあまたの人を樂ましめ感ぜしめんは、いかに快き事なるべきか。われ。詩人第一の快事は詩の成功なり。主婦。さらば能くその快きを題として歌ひ給はんや。君の辭を措《お》き給ふことの容易《たやす》げなるよりわれ等は、頻《しき》りに請ふことの無禮《なめ》げなるをさへ忘れんとす。われ。こゝに一の奇術あり。そは人々皆詩人となりて、能く詩人の快さを體驗することなり。われは此|術《すべ》を善くすれども、かゝる術の常として、報《むくい》なくては演ずべきにあらず。わが此詞は果して座客をして耳を※[#「奇+攴」、第3水準1−85−9]《そばだ》てしめ、人々は爭ひ進みて、願はくはその奇術を見ることを得んと云へり。我は側なる卓《つくゑ》を指ざして、報《むくい》せんと思ふ方々《かた/″\》は、金錢にもせよ珠玉首飾の類にもせよ、此上に出し給へと云ひぬ。婦人の一人は戲《たはむれ》に、さらば我はこの黄金《こがね》の鎖を置かんと云ひて、言ふところの品を卓上に擲《なげう》てり。一男子は笑ひつゝ、さらば我は骨牌《かるた》の爲めに帶び來れる此金殘らずを置かんと云ひて、その財嚢《ざいなう》を擲《なげう》てり。われ。人々よ、我詞は戲言《ざれごと》にあらず、人々は再び其品を得給ふまじといふに、滿座の客は、さもあらばあれ君が奇術こそ見まほしけれと、金銀、指環、鎖の類を堆《うづたか》く卓上に積みたり。軍服着たる一老人、若しその奇術奇ならざるときは、われは我が「ヅカアチイ」二個(約三圓三十八錢)を取り返すことを得んかといひしに、ポツジヨ[#「ポツジヨ」に傍線]は我に代りて、若し疑はしとおもひ給はゞ、夥伴《なかま》に入り給はでもあるべきにと答へぬ。人々はこれを聞きて打笑ひ、只管《ひたすら》我が演じいだす所のいかなるべきを俟《ま》ち居たり。
われは將《まさ》に口を開かんとするに臨みて、神の我に光明を與へ給ふを覺えたり。先づヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]の配偶なる、威力ある海を敍し、それより海の兒孫なる航海者に及び、性命を一|葦《ゐ》に托する漁者に及べり。次に前夕《さいつゆふべ》の目撃せしところに就きて颶風を敍し、岸に臨みて翹望《げうばう》せる婦幼に及び、十字架を落す兒童とこれを拾ひて高く※[#「敬/手」、第3水準1−84−92]《さゝ》ぐる漁翁とに及べり。我は殆ど歌ふところのものゝ即ち神の御聲《みこゑ》にして、我身の唯だ此聲を發する器具に過ぎざるを覺えき。時に廣座の間|寂《せき》として人なきが如く、處々に巾《きれ》もて涙を拭ふものあるを見る。われはこれより茅屋《ばうをく》のうちなる寡婦孤兒の憐むべき生活《なりはひ》を敍し、賑恤《しんじゆつ》の必要と其效果とに及べり。われは人間の快さは取るに在らずして與ふるに在り、與ふる快さは即ち神の御心にして、此心あるものは誰か眞の詩人たらざらんと云へり。我聲の威力、その幅員は曲の末解に至りて強さと大さとを加へき。我曲は能く衆人を感動せしめき。我が卓上の物を取りてポツジヨ[#「ポツジヨ」に傍線]に交付し、これに救助の事を托せしときは喝采の聲|屋《いへ》を撼《ゆるが》したり。爾時《そのとき》一の年わかき婦人ありて、我前に來り跪《ひざまづ》き、我手を握り、その涙に潤《うるほ》へる黒き瞳もて我面を見上げ、神の母の報《むくい》は君が上にあれと呼びたり。われは婦人の黒き瞳を見て、曾て夢中に相逢ひたる如き念《おもひ》をなし、深くこれに動されぬ。婦人は此言をなし畢《をは》りて、纔《わづか》におのれの擧動の矩《のり》を踰《こ》えたるを曉《さと》れりとおぼしく、臉《かほ》に火の如き紅《くれなゐ》を上《のぼ》して席をすべり出でぬ。
座客は皆我傍に集ひて、わが博愛の心を稱《たゝ》へ、わが即興の作を讚む。ポツジヨ[#「ポツジヨ」に傍線]は我を擁して、幸ある友よ、人の仰ぎ視ることをだに敢てせざる美人は、膝を君が前に屈せしにあらずやとささやけり。われ。渠《かれ》は何人《なんぴと》なりしか。ポツジヨ[#「ポツジヨ
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