ノ畫かしめつ。
酒亭の女主人《をみなあるじ》色を變じて馳せ來りて云ふやう。氣の毒なることこそ出來《いできた》り候ひぬれ。岸區《リド》の優《すぐ》れたる舟人六人未だ海より歸らずして、就中《なかんづく》憐むべきアニエエゼ[#「アニエエゼ」に傍線]は子供五人と共に岸に坐して待てり。いかになり行くことならん。只だ聖母《マドンナ》の御惠を祈らんより外|術《すべ》なしといひぬ。忽ち歌頌の聲はわれ等の耳に入れり。戸を出でゝ覗へば、彼の激浪倒立すること十丈なる岸頭に、一群の女子小兒の立てるあり。小兒等は十字架を棒げ持てり。群のうちに一人の年少《わか》き女の、地に坐して海上を凝視せるあり。この女は赤子に乳房を銜《ふく》ませたるに、別に年稍※[#二の字点、1−2−22]長ぜる一兒の膝に枕したるさへありき。忽ち一道の雷火下り射ると共に、颶風は引き去らんと欲する状《さま》をなせり。地平線には小き稻妻亂れ起りて、暗碧なる浪の尖《さき》なる雪花はほの/″\と白み來れり。彼女は俄に蹶起《けつき》して、舟はかしこにと呼べり。われ等はその指す方に一の黒點あるを認め得たり。黒點は次第に鮮《あざや》かになりぬ。時に一人の老漁ありて、褐《かち》いろなる無庇帽《つばなしばうし》を戴き指を組み合せて立ちたりしに、不意にあなやと叫べり。聲未だ畢《をは》らざるに、我等は黒點の泡立てる巨濤の蔭に隱るゝを見たり。果せるかな老漁の目は我を欺かざりき。一群の人は周章の色を現せり。天の漸く明かに、海の漸く靜に、舟人遭難の事の漸く確實になりゆくと共に、周章の色は加はり來れり。小兒は捧げ持ちたりし十字架を地に委《ゆだ》ねて、泣き號《さけ》びつゝ母に縋《すが》りぬ。その時老漁は十字架を地より拾ひて、救世主の足に接吻し、更に高くこれを※[#「敬/手」、第3水準1−84−92]《さゝ》げて口に聖母《マドンナ》の御名を唱へき。
半夜に至りて天に纖雲なく、皎月《けうげつ》はヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]と岸區《リド》との間なる風なき水を照せり。われはポツジヨ[#「ポツジヨ」に傍線]と舟を倩《やと》ひて岸區を離れたり。そは留まりて彼の五子の母を慰藉し、又これを救恤《きうじゆつ》するに由なかりしが爲めなり。
感動
翌晩われはポツジヨ[#「ポツジヨ」に傍線]とヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]屈指の富人|某《それ》の家に會せり。こはわが出納《すゐたふ》の事を托したる銀行の主人《あるじ》なり。會するものはいと多かりしかど、席上一の我が相識れる婦人なく、又一の我が相識らんことを欲する婦人なかりき。
會話は昨夜《よべ》の暴風の事に及べり。ポツジヨ[#「ポツジヨ」に傍線]は舟人の横死と遺族の窮乏とを語りて、些少なる棄損《きえん》のいかに大いなる功徳《くどく》をなすべきかを諷し試みたれども、人々は只だその笑止なることなるかなとて、肩を聳《そびや》かして相視たるのみにて、眞面目にこれに應《こた》ふるものなく、會話は餘所《よそ》の題目に移りぬ。
頃《しばら》くして席は遊藝を競ふところとなり、ポツジヨ[#「ポツジヨ」に傍線]は得意の舟歌《ふなうた》(バルカルオラ)を歌へり。我は友の笑《ゑみ》を帶びたる容貌《おもざし》の背後《うしろ》に、暗に富貴なる人々の卑吝《ひりん》を嘲《あざけ》る色を藏《かく》したるかを疑ひぬ。舟歌畢りしとき、主婦は我に對ひて、君は歌ひ給はずやと問ひぬ。われ、さらば即興の詩一つ試みばやと答へぬ。四邊《あたり》には渠《かれ》は即興詩人なりと耳語《さゝや》く聲す。婦人の群は優しき目もて我を促し、男子等は我を揖《いふ》して請へり。われは「キタルラ」の琴を抱きて人々に題を求めつ。忽ち一少女の臆する色なく目を我面に注ぎてヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]と呼ぶあり。男子幾人か之に應じてヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]、ヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]と反復せり。そはかの少女の頗る美なるが爲めなり。われは絃を理《をさ》めて、先づヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]往古の豪華を説きたり。人々は歴史と空想とを編み交ぜたる我詞章に耳を傾けつゝ、彼過去の影をもて此現在の形となすにやあらん、その眼光は皆|耀《かゞや》けり。われは心中にララ[#「ララ」に傍線]をおもひサンタ[#「サンタ」に傍線]をおもひつゝ、月明かなる夜、渠水《きよすゐ》に枕《のぞ》める出窓の上に、美人の獨りたゝずめる状《さま》を敍したり。婦人等はこれを聞きて、謳《うた》ふもの直ちに己れを讚むとなすにやあらん、繊手を拍《う》ちて我に酬《むく》いぬ。わが席上の成功はスグリツチ[#「スグリツチ」に傍線](原註、知名の即興詩人)にも讓らざる如くなりき。
ポツジヨ[#「ポツジヨ」に傍線]は我耳に附きて、市長《ボデスタ》の姪あ
前へ
次へ
全169ページ中148ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
アンデルセン ハンス・クリスチャン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング