フを聞きしが如くせんといふ。我は舟人を顧みて、舟を要せば別に雇ふべければ、汝達は去留自在にせよといひて、暇を取らせつ。
須臾《しゆゆ》にして波濤|洶々《きよう/\》の音漸く高く、風力の衝突は頻りに全屋を撼《うごか》せり。我とポツジヨ[#「ポツジヨ」に傍線]とは偕《とも》に戸外に出でゝ瞻望《せんばう》したり。時に夕陽は震怒したる海の暗緑なる水を射て、大波の起る處雪花亂れ翻《ひるがへ》れり。地平線に近き邊には、層雲|堆《たい》を成して、稻妻の其間より閃發《せんぱつ》せるさま、幾箇の火山の噴坑を開けるに似たり。我等は忽ち二三の舟の紙上の黒點の如く彼雲に映ずるを見しが、忽ち又之を失へり。岸を噬《か》む水は、石に觸れて倒立し、鹹沫《しぶき》は飛んで二人の面を撲《う》てり。ポツジヨ[#「ポツジヨ」に傍線]の興は風浪の高きに從ひて高く、掌を抵《う》ちて哄笑し、海に對して快哉《くわいさい》を連呼せり。此興は我に感じ傳はりて、我は胸中の苦悶の天地の忿怒に壓倒せらるゝを覺え、亦ポツジヨ[#「ポツジヨ」に傍線]の聲に應じて叫びぬ。
暮色は急に襲ひ至りぬ。我等は亭《あづまや》に入りて、當※[#「土へん+盧」、第3水準1−15−68]《たうろ》の女をして良酒を供せしめ、續けさまに數杯を傾けて、此自然の活劇を翫《もてあそ》べり。忽ちポツジヨ[#「ポツジヨ」に傍線]の聲を放ちて歌ふを聞きつ。其曲は嘗て此地に來りしとき舟中にありて聞きしと同じき戀の歌なり。われ杯を擧げて、ヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]の美人の健康のために飮まんと云へば、ポツジヨ[#「ポツジヨ」に傍線]、さらば我は羅馬の美人のために飮まんと云ふ。若し相識らぬ人の、我等の狂態を見たらんには、定めて尋常時《つねのとき》に及びて行樂する徒《ともがら》となすなるべし。ポツジヨ[#「ポツジヨ」に傍線]のいふやう。女子の美は羅馬に若《し》くはなし。君はいかにおもひ給ふか。憚《はゞか》ることなく答へ給へ。われ。そは我が首肯する所なり。ポツジヨ[#「ポツジヨ」に傍線]。さもあるべし。されど伊太利第一の美人は此ヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]にこそあれ。憾むらくは君未だ市長《ボデスタ》の女を見給はず。清楚なること此の如きは、世の絶て無くして僅に有るところにして、これをや精神上の美とは云ふべき。若しカノワ[#「カノワ」に傍線]にして此女を識りたらましかば、その三美《ハリテス》の像の最も少きをば、必ず此女の姿によりて摸し成ししならん。(カノワ[#「カノワ」に傍線]は彫匠《てうしやう》なり。ポツサニヨ[#「ポツサニヨ」に二重傍線]に生れヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]に歿す。三美の像は獨逸ミユンヘン[#「ミユンヘン」に二重傍線]に在り。)われは嘗て晩餐式ありしとき、寺院にて見、又|聖摩西《サン、モセス》の劇場にて一たび見たり。その高根の花に似て、仰ぎ看るだに容易《たやす》からぬを恨むものは、獨り我のみにはあらず。おほよそヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]の少年紳士にして同じ恨を抱かぬはあらざるならん。只だ人々と我と相異なるは、彼は懸想《けさう》し我は懸想せざるのみ。我俗眼もて見れば、彼人は餘りに天人めきたり。されど天人は崇拜の對象とすべきならん。「アバテ」はいかに思ひ給ふといふ。われは此語を聞いて、フラミニア[#「フラミニア」に傍線]の事を思ひ出し、喜の色は我面より消え失せたり。ポツジヨ[#「ポツジヨ」に傍線]。酒は好し。風波は我|筵《えん》の爲めに歌舞す。いかなれば君|愁《うれひ》の色を見せ給ふぞ。われ。市長《ボデスタ》は客を招き筵を張ることありや。ポツジヨ[#「ポツジヨ」に傍線]。稀にそのことなきにあらず。されど招請《せうせい》を慎《つゝし》むこといと嚴《おごそか》なり。矧《いはん》や彼人は物に怯《おそ》るゝこと鹿子《かのこ》の如く、同じ席に列《つらな》るものもたやすく近づくこと能はざるを奈何せん。われは必ずしもかの人心より此の如しと説かず。そは人にめづらしがられんとてかく振舞ふ女も少からねばなり。そが上に彼人の身上には明白ならざる處なきにしもあらず。わが聞くところに依れば、市長に二人の妹ありて、皆久しく遠國に住めりき。その最も少《わか》き方の妹は希臘人に嫁ぎたりしに、その夫婦の間に彼の奇《く》しき少女はまうけられぬといふ。今一人の妹は猶|處子《しよし》なり、しかも老いたる處子なり。四とせ前の頃彼の少女を伴ひて歸り來りしは、此の老處子に他ならざりき。
夜の如き闇黒は急に酒亭《オステリア》を襲ひて、ポツジヨ[#「ポツジヨ」に傍線]が話の腰を折りたり。あなやと驚く隙《ひま》もあらせず、赫然《かくぜん》たる電光は身邊を繞《めぐ》り、次いで雷聲大に震ひ、我等二人をして覺えず首を低《た》れて、十字を空
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