Nすこと、一の寺院の如くなりき。フラミニア[#「フラミニア」に傍線]の姫の詞は、此時|端《はし》なく憶ひ出されぬ。詩人は神の預言者にあらずや。何故に詩人は神の徳を頌せんことを勉めざる。嗚呼、我は忽ち此詞の眞理なることを感得せり。不滅なる詩人の心は不滅なる神をこそ詩料とすべきなれ。目前の榮華は泡沫の五彩の色を現ずるに異ならずして、その生ずる時はやがてその滅する時なり。われは忽ち興到り氣|奮《ふる》ふを覺えしに、忽ち又興散じて氣衰ふるを覺え、悄然として舟に上り、大海に臨める岸區《リド》に着きぬ。
 海はやゝ浪立てり。われは佇立《ちよりつ》してアマルフイイ[#「アマルフイイ」に二重傍線]の灣《いりえ》を憶ひ起しつゝ、目を轉じて身邊を顧みれば、波のもて來し藻草と小石との間に坐して、草畫を作れる男あり。われは其姿に些《ちと》の見おぼえあるをもて、徐《しづか》にこれに近づくほどに男は身を起して此方《こなた》に向へり。こは我がヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]に來てよりの新相識の一人なる貴族の少年にて名をポツジヨ[#「ポツジヨ」に傍線]といふものなりき。
 ポツジヨ[#「ポツジヨ」に傍線]のいふやう。こゝにて君と相見んとは思ひ掛けざりき。この怒り易く恃《たの》み難きハドリア[#「ハドリア」に二重傍線]の海の、能く君を招き致したるは、唯だその紅波白浪の美あるがためか、そも/\別に美なるものありて、この岸區に住めるにはあらざるかといひぬ。我等は互に進み寄りて手を握りつ。
 人の語るを聞くに、ポツジヨ[#「ポツジヨ」に傍線]は畫才ありて資力なき人なり。その人に對する言語動作は活溌にして、間々放縱なるかとさへ疑はるゝ節あれども、まことはいみじき厭世家なり。言ふところはドン・ホアン[#「ドン・ホアン」に傍線]を欺《あざむ》く蕩子《たうし》なる如くにして、まことは聖《サン》アントニウス[#「アントニウス」に傍線]の誘惑を峻拒《しゆんきよ》する氣概あり。無邪氣なること赤子の如く、胸中一事を包藏するに堪へざるものに似て、智を恃《たの》める士流は遂にその底蘊《ていうん》を窮むること能はず。こは深き憂に中《あた》れるが爲めなるべけれど、その憂は貧か戀か、そも/\別に尋常《よのつね》ならざる祕密あるか。これを知るもの絶て無しとぞ。われは人の若語《しかかた》るを聞きて、かねてよりポツジヨ[#「ポツジヨ」に傍線]に親まんことを願ひしかば、今ゆくりなくこれに逢ひて、心にこの邂逅を喜び、早く胸の狹霧《さぎり》のこれがために晴るゝを覺えき。
 ポツジヨ[#「ポツジヨ」に傍線]は海を指ざしてかゝる青く波立てる大面積は羅馬の無き所なり、おほよそ地上の美なるもの海に若《し》くはなかるべし、宜《むべ》なり海はアフロヂテ[#「アフロヂテ」に傍線]の母にしてと云ひさし、少し笑ひて、又ヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]歴代の大統領の未亡人なりといへり。われ。海を愛する心は、ヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]の人殊に深かるべき理《ことわり》あり。海は己れが母なるヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]の母にして、己れを愛撫し己れを游嬉せしむる祖母なればなり。ホツジヨ。その氣高かりし海の女《むすめ》の今は頭を低《た》れたるぞ哀なる。われ。フランツ[#「フランツ」に傍線]帝の下にありて幸ありとはいふべからざるか。ポツジヨ[#「ポツジヨ」に傍線]。われは政治を解せず。ヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]人は今も不平を説くことを須《もち》ゐざるなるべし。されどわが解するところのものは美妙なり。陸上宮殿の柱像《カリアチデス》たらんは、海の女王たらんことの崇高なるには若《し》かず。おもふに君の美妙を崇拜し給ふこと我に殊ならざるべければ、君はかしこより來る彼美《かのび》の呼び迎ふるをも辭《いな》み給はぬならん。こは識る所の酒亭《オステリア》の娘なり。共に往き給はずやといふ。われはポツジヨ[#「ポツジヨ」に傍線]と少女《をとめ》に誘はれて、海に枕《のぞ》める小家に入りぬ。酒は旨《うま》し。友は善く談ぜり。誰かポツジヨ[#「ポツジヨ」に傍線]が軽快なる辯と怡悦《いえつ》の色とを見て、その厭世の客たるを知り得ん。我は共に坐すること二時間ばかりなりしに、舟人は急に我を呼びて歸途に就かんことを促せり。こは颶風《ぐふう》の候《しるし》ありて、岸區《リド》とヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]との間なる波は、最早小舟を危うするに足るが故なりと云へり。ポツジヨ[#「ポツジヨ」に傍線]は耳を欹《そばだ》てたり。何とか云ふ。颶風は我が久しく觀んことを願ひしところなり。「アバテ」も暫く我と共に留まり給へ。日の暮るゝまでには凪《な》ぐべし。若《もし》凪がずば、枕をこの茅《かや》屋根の下に安くして、波の音を聞くこと、昔子もり
前へ 次へ
全169ページ中146ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
アンデルセン ハンス・クリスチャン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング