q亭の窓を開いて立ち、黒き小舟の矢を射る如く黒き波を截《き》り去るを望み、前《さき》の舟人の歌ひし戀の歌を憶ひ起せり。われは此時アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]を恨みき。いかなれば彼佳人は我を棄てゝベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]に奔《はし》りしぞ。こは誠實を去りて輕薄に就きしにあらずや。われは此時フラミニア[#「フラミニア」に傍線]をさへ恨みき。いかなれば彼|少女《をとめ》は我を棄てゝ尼寺に入りしぞ。こは情愛を去りて平和に就きしにあらずや。我胸は一種の言ふべからざる空虚を感じたり。我胸はあらゆる我を喜ばせしものとあらゆる我を慰めし者とを一掃して去らんと欲せり。然るにかく思議する間、終始我心目の前に往來するものは、可哀《かはゆ》きララ[#「ララ」に傍線]と罪深きサンタ[#「サンタ」に傍線]との面影なりき。われは蹣跚《まんさん》として階《きざはし》を下り、舟を喚《よ》びて水の衢《ちまた》を逍遙せり。二人の柁手《こぎて》は相和して歌ふ。其歌は古の恢復せられたるエルザレム[#「エルザレム」に二重傍線](ジエルザレムメ、リベラアタ)の調にあらず、大統領《ドオジエ》の族《うから》絶えて、獅子の翼の外人《よそびと》に縛せられてより、ヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]の民はその歌謠の上の國粹をさへ失ひつるなり。われは獨語して、いでや人生の渦裏に投じて、人生の樂《たのしみ》を受用し、誓ひて餘瀝なからしめんと云ふとき、舟はもとの旅館の階下に留まりぬ。われは又蹣跚として階を上り、おぼつかなき孤客の夢を結びぬ。

   颶風

 羅馬より齎《もたら》したる紹介状は、我をして相識を得しめ、我をして所謂朋友あらしめたり。人々は我を「アバテ」と喚べり。我言の善きをば人皆褒め、我|才《ざえ》をば人皆稱せり。羅馬なる恩人は常に我に不快なる事を告げ、中にはことさらに我に快からざるべき事どもを探り覓《もと》めて、そを我に告ぐる如くなりしに、今はさる詞を耳にすることなし。羅馬にては常に長上にのみ交ることゝて、フラミニア[#「フラミニア」に傍線]の姫の情あるすら、我をして抑壓の苦を忘れしむること能はざりしに、今は心にさる負荷《おひに》を覺ゆることなし。苦言を聞かざるは、信ある友なきなりといへば、こゝには信ある友は絶て無きなるべし。
 われは大統領《ドオジエ》の館《たち》の輪奐《りんくわん》の美を討《たづ》ねて、その華麗を極めたる空《むな》しき殿堂を經※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]《へめぐ》り、おそろしき活《いき》地獄の圖ある鞠問所《きくもんじよ》を觀き。われは彼四面皆|塞《ふさが》りたる橋の、小舟通ふ溝渠の上に架せられたるを渡りぬ。是れ館より牢獄に往く道にして、名づけて歎息橋と曰ふとぞ。橋に接する處は即ち牢井《らうせい》なり。廊《わたどの》に點じたる燈火《ともしび》は僅かに狹き鐵格《てつがう》を穿ちて、最上層の獄《ひとや》を照し出せり。此層の如きは、これを下層に比するときは、猶晴やかなる房《へや》と稱すべきならん。濕《うるほ》ひて菌《きのこ》を生じたる床は、※[#「二点しんにょう+向」、第3水準1−92−55]《はるか》に溝渠の水面の下にあり。あはれ、此房の壁は幾何《いくばく》の人の歎息と叫喚とを聞きつる。われは慴然《せふぜん》として肌膚《きふ》の粟《あは》を生ずるを覺え、急に舟を呼んで薄赤いろなる古宮殿、獅子を刻める石柱の前を過ぎ、鹹澤《かんたく》の方に向ひぬ。舟の指すところは即ち所謂|岸區《リド》なりき。
 われは岸區に近づくとき、何物をか見し。ここには一の大いなる墓田ありき。外國人《とつくにびと》と新教徒とは、この水と水とに挾まれたる一帶の土の、殆ど時々刻々洗ひ去らるゝ状《さま》をなせる處に埋めらるゝなり。白き人骨は沙《いさご》の表に露《あらは》れて、これが爲めに哭《こく》するものは、只だ浪の音あるのみ。
 漁父の危きを冒して沖に出でたるとき、その妻そのいひなづけの妻などの、坐して夫の舟の歸るを待つは、此岸區なりといふ。颶風《ぐふう》の勢少しく挫《くじ》けたるとき、こゝに坐したる女子《をみなご》の、彼恢復せられたるエルザレム[#「エルザレム」に二重傍線]中の歌を歌ひ、耳を傾けて夫の聲のこれに應ずるや否やを覗《うかゞ》ひしこと幾度ぞ。さるをその懷《なつ》かしき夫の聲の終に應ずることなく、可憐の女子の獨り不言の海に對して口は復た歌ふこと能はず、目は空しく沙上の髑髏《されかうべ》を見、耳は徒らに岸打浪《きしうつなみ》の音を聞きて、暮色の漸く死せる古都を掩《おほ》ふを覺えしこと又幾度ぞ。
 この暗澹たる畫圖は我心目に上りて消えず、我情調はこれに一層の悲慘の色を添へんとせり。わが對するところの自然は、無常と歴劫《れきごふ》との觀を惹《ひ》き
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