熏浮ォ布を覆《おほ》へり。水の上なる柩《ひつぎ》とやいふべき。拿破里《ナポリ》の水は岸に近づきても猶藍いろなるに、こゝは漸く變じて汚れたる緑となれり。偶※[#二の字点、1−2−22]《たま/\》一島の傍を過ぐるに、その家々は或は直ちに水面《みのも》より起れる如く、或は廢《すた》れたる舟の上に立てる如し。最も高き石壁の頂に、幼き耶蘇《やそ》を抱ける聖母《マドンナ》の御像《みざう》ありて、この荒涼なる天地を眺め居給ふ。水の淺きところは、別に一種の鴨緑《あふりよく》色をなして、一面深き淵に接し、一面は黒き泥土の島に接す。日は明《あか》くヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]の市《まち》を照して、寺々の鐘は皆鳴り響けり。されど街衢《がいく》は闃《げき》として人影なきに似たり。船渠《せんきよ》を覗へば、只だ一舟の横《よこたは》れるありて、こゝにも人を見ざりき。
我は身を彼水上の柩《ひつぎ》に托して、水の衢《ちまた》に入りぬ。樓屋軒をならべて石階の裾《すそ》は直ちに水面に達し、復た犬ばしり程の土をだに着けず。家々の穹窿門《きゆうりゆうもん》は水に架して橋梁の如く、中庭は大なる井の如し。この中庭には舟に帆掛けて入るべけれど、舳艫《ぢくろ》を旋《めぐら》さんことは難《かた》かるべし。海水はその緑なる苔皮《たいひ》をして、高く石壁に攀《よ》ぢ登らしめ、巍々《ぎゝ》たる大理石の宮殿も、これが爲めに水中に沈まんと欲する状《さま》をなし、人をして危殆《きたい》の念を生ぜしむ。況《いはん》や金薄《きんぱく》半ば剥げたる大窓の※[#「※[#第4水準2−13−74] 」の「斤」に代えて「りっとう」、132−中段−24]《けづ》らざる板もて圍まれたるありて、大廈の一部まことに朽敗《きうはい》になん/\としたるをや。既にして梵鐘《ぼんしよう》は聲を斂《をさ》めて、※[#「楫+戈」、第3水準1−86−21]《かぢ》の水を撃つ音より外、何の響をも聞かずなりぬ。われは猶未だ人影を見ずして、只だ美しきヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]の鵠《はくてう》の尸《かばね》の如く波の上に浮べるを見るのみ。
舟は轉じて他の水路に入りぬ。その幅頗る狹くして石橋あまたかゝれり。こゝには人ありて、或は橋を渡りて家の間に隱れ、或は石壁の門を出入す。されど街と名づくべきものは、水路の外有ることなし。舟人の棹《さを》を留めたるとき、われは何處に往くべきぞと問ひぬ。舟人は家と家との間を通ずる、橋の側なる隘《せば》き巷《こうぢ》を指ざし教へつ。兩邊の家に住める人は、おの/\六層樓上の窓を開いて、互に手を握ることを得べく、この日光を受けざる巷は、僅に三人の並び行くことをゆるすなるべし。我舟は既に去りて、身邊また寂《せき》として人を見ず。
あはれヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]とは是か、海の配偶と云ひ、世界第一の富強者と云ひしヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]とは是か。われは名に聞えたるマルクス[#「マルクス」に傍線]の廣こうぢに入りぬ。こはヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]の心胸と稱すべき處にして、國の性命は此《こゝ》に存ずといふなるに、その所謂《いはゆる》繁華は羅馬のコルソオ[#「コルソオ」に二重傍線]に孰與《いづれ》ぞ、又拿破里《ナポリ》の市に孰與ぞ。石の迫持《せりもち》の下なる長き廊道《わたどのみち》には、書肆《しよし》あり珠玉店あり繪畫鋪あれども、足を其前に留むるもの多からず。唯だ骨喜店《カツフエエ》の前には、幾個の希臘人、土耳格《トルコ》人などの彩衣を纏ひて、口に長き烟管《きせる》を啣《ふく》み、默坐したるあるのみ。日は「マルクス」寺の星根の鍍金《めつき》せる尖《さき》と寺門の上なる大いなる銅馬《どうめ》とを照して、チユペルス[#「チユペルス」に二重傍線]、カンヂア[#「カンヂア」に二重傍線]、モレア[#「モレア」に二重傍線]等の舟の赤檣《せきしやう》の上なる徽章ある旗は垂れて動かず。數千の鴿《はと》は廣こうぢを飛びかひて、甃石《いしだたみ》の上に※[#「求/食」、第4水準2−92−54]《あさ》れり。
われは進みてポンテ、リアルトオ[#「ポンテ、リアルトオ」に二重傍線]に到りて、いよ/\斯《この》土の風俗を知りぬ。ヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]は大いなる悲哀の郷なり、我主觀の好き對象なり。而して此郷の水の上に泛《うか》べること、古のノアの舟と同じ。われは小き舟を下りて、この大いなる舟に上りしなり。
日の夕となりて、模糊として力なき月光の全都を被《おほ》ひ、隨處に際立ちたる陰翳《いんえい》を生ぜしとき、われはいよ/\ヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]の眞味を領略することを得たり。死せる都府の陰森《いんしん》の氣は、光明に宜しからずして幽暗に宜しければなり。われは
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