を地上に覆《くつがへ》して、これを焚いて光を放ち熱を發せしむるに及ばざりき。こは濫用して人に禍《わざはひ》せしならねど、遂に徒費して天に背《そむ》きしことを免れず。そも/\我は誓約の良心を縛《ばく》するあるにあらず、責任の云爲《うんゐ》を妨ぐるあるにあらずして、何故に我前に湧ける愛の泉を汲まざりしぞ。かく思ひ續くれば、一種の言ふべからざる情はわが胸に溢れたり。これに名づけて自ら慊《あきたら》ざる情ともいふべきか。こは我慾火の勢を得て、我智慧を燬《や》くにやあらん。
我がサンタ[#「サンタ」に傍線]を畏れて走り避けしは何故ぞ。聖母《マドンナ》の像の壁上より落ちぬればなり。否々、※[#「金+肅」、第3水準1−93−39]《さ》びたる釘はいづれの時か折れざらん。まことに我をして走り避けしめしものは、我脈絡中なる山羊の乳のみ、「ジエスヰタ」派學校の教育のみ。われはサンタ[#「サンタ」に傍線]の艶色を憶ひ起して、心目にその燃ゆる如き目《ま》なざしを見心耳にその渇せる如き聲音《こわね》を聞き、我と我を嘲り我と我を卑《いやし》めり。何故に我は世上の男子の如く、ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]の如くなることを得ざる。愛を求むるは我心にあらずや。我心は神の授け給ひし光明にあらずや。さらば愛を求むるは神にあらずや。此時我は此の如くに思議せり。此の如くに思議して、ヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]の繁華をおもひ、その女《をみな》ありて雲の如くなるをおもひ、我血の猶熱せるをおもひ、忽ち聲を放ちて我少年の歌に和したり。
嗚呼、是れ皆熱の爲めに發せし譫語《うはごと》のみ、苦痛の餘なる躁狂《さうきやう》のみ。我に心の光明を授け給ひし神よ、我運命の柄を握り給ふ神よ。我は御身の我罪を問ひ給ふことの刻薄ならざるべきを知る。人の心中には舌頭に上《のぼ》すべからざる發作《ほつさ》あり、爭鬪あり。是れ吾人の清廉なる守護神の膝を惡魔の前に屈する時なり。世の能く欲して能く遂ぐる人々は、我がいたづらに欲せしところに就いて、自在に評論せよ。されど汝等は裁決せざれ。さらば汝等は裁決せられざるならん。汝等は呪誼《じゆそ》せざれ。さらば汝等は呪誼せられざるべし。我は實に此の如く思議せり。此の如く思議して、復た祷《いのり》の詞を出すこと能《あた》はずして寢たり。舟は穩《おだやか》に我夢を載せて、北のかたヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]に向へり。
水の都
曉に起きて望めば、前面早く家々の壁と寺塔とを辨ずることを得たり。そのさま譬へば帆を揚げたる無數の舟の横に列《つらな》れるが如し。左のかたにはロムバルヂア[#「ロムバルヂア」に二重傍線]の岸の平遠なる景を畫けるあり。遙に地平線に接してはアルピイ[#「アルピイ」に二重傍線]の山脈の蒼靄《さうあい》に似たるあり。われはこれを望みて、彼蒼《ひさう》の廣大なるを感ぜり。天球の半《なかば》は一時に影を我心鏡に映ずることを得たるなり。
爽涼なる朝風は我感情を冷却せり。我は心裡《しんり》にヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]の歴史を繰り返して、その古《いにしへ》の富、古の繁華、古の獨立、古の權勢|乃至《ないし》大海に配《めあは》すといふ古の大統領《ドオジエ》の事を思ひぬ。(ヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]共和國に「ドオジエ」を置きしは、第八世紀より千七百九十七年に至る。)既にして舟は漸く進み、鹹澤《かんたく》(ラグウナ)の上なる個々の人家を見るに、その壁は黄を帶びたる灰色を呈し、古代の樣式にもあらず、又近時の設計にもあらねば、要するに好觀にあらざりき。名に聞えたるマルクス[#「マルクス」に傍線]の塔は思ひしよりも高からず。舟は陸と鹹澤との間を進めり。後なるものは曲りたる堤の如く、海中に斗出《としゆつ》したり。土地は全體極めて卑《ひく》しとおぼしく、岸の水より高きこと僅に數寸なるが如し。偶※[#二の字点、1−2−22]數戸の小屋の群を成せるあれば、指ざして市《フジナ》と云ふ。こゝかしこには一叢《ひとむら》の木立あり。其他は渾《すべ》て是れ平地なりき。
われはヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]の既に甚だ近きを覺えしに、今|傍人《かたへびと》に問へば猶一里ありと答ふ。而して此一里の間は、皆|瀦留《ちよりう》せる沼澤《せうたく》の水のみ。處々には泥土の島嶼《たうしよ》の状《さま》をなして頭を露《あらは》せるあり。その上には一鳥の足を留むるなく、一莖の草の萌え出づるなし。沼澤の中に、深き渠《みぞ》を穿ちて、杭を立て泥を支ふるあり。是れ舟を行《や》る道なり。われは始て「ゴンドラ」といふ小舟を見き。皆黒塗にして、その形狹く長く、波を截《き》りて走ること弦《つる》を離れし箭《や》に似たり。逼《せま》りて視れば、中央なる船房に
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