哩ナ《いひなづけ》の婦《つま》を愛するが如くならず。されどその人の婦とならんをば、われまた冷に傍より看ること能はざりしならん。今やフラミニア[#「フラミニア」に傍線]は死せり、現世《うつしよ》の爲めには亡人《なきひと》の數に入りたり。世にはこれを抱き、その唇に觸るゝことを得るものなし。是れ我が責《せめ》てもの慰藉也。
 海に往かん、往いて海の驚くべき景を觀ん。是れ我が新なる境界なり。ヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]よ、水に泛《うか》べる都城よ、ハドリア[#「ハドリア」に二重傍線]の海の王女よ、願はくは我をして重れる山と黒き林とを過ぎることを須《もち》ゐず、空に翔《かけ》り波を凌《しの》ぎて汝と會することを得しめよとは、我が當時の夢なりき。
 初め我は先づフイレンチエ[#「フイレンチエ」に二重傍線]に往き、かしこよりボロニア[#「ボロニア」に二重傍線]、フエルララ[#「フエルララ」に二重傍線]を經て、ヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]に達せんと欲せしに、今は忽ち前の計畫を擲《なげう》ち、スポレツトオ[#「スポレツトオ」に二重傍線]より雇車《やとひぐるま》を下り、暗夜身を郵便車に托してアペンニノ[#「アペンニノ」に二重傍線]の嶺を踰《こ》え、ロレツトオ[#「ロレツトオ」に二重傍線]の地をさへ、尊き御寺《みてら》を拜まずして馳せ過ぎつ。
 山道を登りて巓《いたゞき》に至りし時、我は早く地平線上一帶の銀色を認め得たり。是れハドリア[#「ハドリア」に二重傍線]海なり。脚下に大波の層疊せるを見るは、群巒《ぐんらん》の起伏せるなり。既にして碧波の上に、檣竿《しやうかん》の林立せるを辨ず。種々《くさ/″\》なる旗章は其|尖《さき》に翻《ひるがへ》れり。光景は略《ほ》ぼ拿破里《ナポリ》に似たれど、ヱズヰオ[#「ヱズヰオ」に二重傍線]の山の黒烟を吐けるなく、又カプリ[#「カプリ」に二重傍線]の島の港口に横《よこたは》れるなし。此夜の夢に、我はフルヰア[#「フルヰア」に傍線]のおうなとフラミニア[#「フラミニア」に傍線]の君とに逢ひしに、二人皆面に微笑を湛へて、君が福祉の棕櫚《しゆろ》は緑ならんとすと告げたり。
 眠醒めしとき、日は旅店の窓よりさし入りたり。房奴《カメリエリ》來りていふやう。客人《まらうど》よ、ヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]に渡る舟は今帆を揚げんとす、猶留りてこのわたりの景色を觀んとやし給ふといふ。否、舟あるこそ幸なれ、さらば直ちにヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]に往かんと答へつ。我心は何故とも知る由なけれど、唯だ推され輓《ひ》かるゝ如くなりき。われは埠頭《ふとう》におり立ちて、行李を搬《はこ》び來らしめ、目を放ちて海原を望み見たり。さらば/\我故郷。われは足の此土を離れんとするに臨みて、いよ/\新なる世界の我が爲めに開くべきを感ぜり。北伊太利國の自然の全く相|殊《こと》なるべきは始より疑ふべからず。就中《なかんづく》ヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]は盛飾せる海の配偶にして、他の伊太利諸市と全く其趣を異にすべきこと明なり。我が乘るところの此舟は、即ちヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]の舟にして、翼ある獅子の旗は早く我が頭上に翻《ひるがへ》れり。帆は風に※[#「厭/食」、第4水準2−92−73]《あ》きて、舟は忽ち外海に※[#「馬+央」、131−上段−13]《はし》り出で、我は艙板《ふないた》の上に坐して、藍碧なる波の起伏を眺め居たるに、傍に一少年の蹲《うづくま》れるありて、ヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]の俚謠《ひなうた》を歌ふ。其歌は人生の短きと戀愛の幸あるとを言へり。こゝに大概《あらまし》を意譯せんか。其辭にいはく。朱《あけ》の唇に觸れよ、誰か汝の明日《あす》猶在るを知らん。戀せよ、汝の心の猶|少《わか》く、汝の血の猶熱き間に。白髮は死の花にして、その咲くや心の火は消え、血は氷とならんとす。來れ、彼|輕舸《けいか》の中に。二人はその蓋《おほひ》の下に隱れて、窓を塞ぎ戸を閉ぢ、人の來り覗《うかゞ》ふことを許さゞらん。少女《をとめ》よ、人は二人の戀の幸を覗はざるべし。二人は波の上に漂ひ、波は相推《あひお》し相就《あひつ》き、二人も亦相推し相就くこと其波の如くならん。戀せよ、汝の心の猶|少《わか》く、汝の血の猶熱き間に。汝の幸を知るものは、唯だ不言の夜あるのみ、唯だ起伏の波あるのみ。老は至らんとす、氷と雪ともて汝の心汝の血を殺さん爲めに。少年は一節を唱《うた》ふごとに、其友の群を顧みて、互に相頷けり。友の群は劇場の舞群《ホロス》の如くこれに和せり。まことに此歌は其辭卑猥にして其|意《こゝろ》放縱なり。さるを我はこれを聞きて輓歌《ばんか》を聞く思ひをなせり。老は至らんとす。少壯の火は消えなんとす。我は尊き愛の膏
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