れはいたく感動して、覺えず歩み退《しりぞ》くこと二三歩なりき。嗚呼、嘗て一たび我性命を救ひ、我に拿破里に至る盤纏《ろよう》を給せしフルヰア[#「フルヰア」に傍線]は、今此梟木の上より我と相見るなり。この藍色なる唇は、曾て我額に觸れしことあり。この物言はざる口は、曾て我に未來の運命を語りしことあり。汝は我福祉を預言したり。汝の猛き鷲は日邊に到らずして其翼を折《くじ》けり、世のまがつみと戰ひてネミ[#「ネミ」に二重傍線]の湖に沈みたり。われは涙を灑《そゝ》いでフルヰア[#「フルヰア」に傍線]の名を呼び、盤散《はんさん》として閭門《りよもん》の外なる街道に歩み旋《かへ》りぬ。
翌朝ネピ[#「ネピ」に二重傍線]を發してテルニイ[#「テルニイ」に二重傍線]に抵《いた》りぬ。こは伊太利|疆内《きやうない》にて最も美しく最も大なる瀑布ある處なり。われは案内者《あないじや》と共に、騎して市を出で、暗く茂れる橄欖《オリワ》の林に入りぬ。濕《うるほ》ひたる雲は山巓《さんてん》に棚引けり。我は羅馬以北の景を看て、その概《おほむ》ね皆陰鬱なるに驚きぬ。大澤《たいたく》の畔の如くならず、テルラチナ[#「テルラチナ」に二重傍線]なる橄欖の林の棕櫚《しゆろ》を交へたるが如くならず。されど我は猶此感の我中情より出でたるにあらざるかを疑へり。
道は一苑を過ぎて、巖壁と激流との間なる街※[#「木+越」、第3水準1−86−11]《なみき》に入りぬ。その木は皆鬱蒼たる橄欖なり。これを行く間、われは早く水沫《みなわ》の雲の如く半空に騰上《とうじやう》して、彩虹の其中に現ぜるを見き。蝦夷石南《レヅム》と「ミユルツス」との路を塞げるを、押し分けつゝ攀《よ》ぢ登りて見れば、大瀑《おほたき》は山の絶巓《ぜつてん》より起り、削《けづ》れる如き巖壁に沿ひて倒下す。側に一支流ありて、迂曲して落つ。其|状《さま》銀色の帶を展《の》べたる如し。この細大二流は、わが立てる巖《いはほ》の前に至りて合し、幅|闊《ひろ》き急流となり、乳色の渦卷を生じて底《そこひ》なき深谷に漲《みなぎ》り落つ。雷の如き響は我胸を鼓盪《こたう》して、我失望我苦心と相應じ、我をして前《さき》に小尼公《アベヂツサ》の爲めにチヲリ[#「チヲリ」に二重傍線]の瀧の前に立ちて、即興の詩を吟ぜし時の情を憶ひ起さしむ。げにや、碎け、消え、死するは自然の運命なること、獨り此瀑布のみにはあらず。
導者はわれを顧みていふやう。昨年|英吉利《イギリス》人《びと》ひとり山賊に撃ち殺されしは、此巖の上にての事なりき。賊はサビノ[#「サビノ」に二重傍線]の山のものなりといへど、羅馬のテルニイ[#「テルニイ」に二重傍線]との間に出沒して、人その踪蹤《そうしよう》を審《つばら》にすること能はず。警吏は直ちに來りて、そが夥伴《なかま》なる三人を捕へき。われはその車上に縛せられて市《まち》に入るを見たり。市の門にはフルヰア[#「フルヰア」に傍線]の老女《おうな》立ち居たり。老女は天《あめ》の下の奇しき事どもを多く知れるものにて、世には法皇の府の僧官《カルヂナアレ》達も及ばざること遠しとぞいふ。その時老女の車上の賊に向ひて語りしは、何事にかありけん、例の怪しき詞なれば、傍聽《かたへぎき》せしものは辨《わきま》へ知らん由なかりき。さるを後には老女を彼賊の同類なりとし、ことし數人の賊と共に彼老女をさへ刎《は》ねて、ネピ[#「ネピ」に二重傍線]の石垣の上に梟《か》けたりと語りぬ。
妄想
自然と云ひ人事と云ひ、一として我心の憂を長ずる媒《なかだち》とならざるものなし。暗黒なる橄欖《オリワ》の林はいよ/\濃き陰翳を我心の上に加へ、四邊《よも》の山々は來りて我|頭《かしら》を壓せんとす。われは飛ぶが如くに、里といふ里を走り過ぎて、早く海に到らんことを願へり、風吹く海に、下なる天《そら》の我を載すること上なる天の我を覆ふが如くなる處に。
我胸は愛を求むるが爲めに燃ゆ。是より先き此火は既に二たび點ぜられしなり。昔のアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]は我が仰ぎ瞻《み》しところ、我が新に醒めたる心の力もて攀《よ》ぢんと欲せしところなるに、憾《うら》むらくは我を棄てゝ人に往けり。今のフラミニア[#「フラミニア」に傍線]は我を眩《げん》せしめず、我を狂せしめずして、漸く我心と膠着《かうちやく》すること、寶石のまばゆからざる光の、久しきを經て貴きことを覺えしむるが如くなりき。フラミニア[#「フラミニア」に傍線]は我手を握ること、妹の兄の手を握る如く、我にこれに接吻することを許すこと、妹の兄に許す如く、又我を説き慰め、我が爲めに祈りて世の穢《けがれ》を受けざらしめんとして、その度ごとに知らず識らず鏃《やじり》を我心に沒せしめたり。我はこれを愛すること
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