ゥな。いでや、記念《かたみ》の花の匂へる南國を出でゝ、アペンニノ[#「アペンニノ」に二重傍線]の山を踰《こ》え、雪深き北地に入らん。アルピイ[#「アルピイ」に二重傍線]おろしの寒威は、恰も好し、我が沸《わ》きかへる血を鎭むるならん。いでや浮島のヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]に往かん、わたつみの配《つま》てふヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]に往かん。神よ、我をして復た羅馬に歸らしむること勿《なか》れ、我記念の墳墓を訪《とぶら》はしむること勿れ。さらば羅馬、さらば故郷《ふるさと》。
梟首《けうしゆ》
車は物寂《ものさ》びたるカムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]の野を走りぬ。サン、ピエトロ[#「サン、ピエトロ」に傍線]の寺塔は丘陵のあなたに隱れぬ。既にして我はモンテ、ソラクテ[#「モンテ、ソラクテ」に二重傍線]の側を過ぎ、山を踰《こ》えてネピ[#「ネピ」に二重傍線]の市《まち》に入りぬ。明月は市の狹き巷《ちまた》を照せり。一僧の酒肆《オステリア》の前に立ちて説法するあり。群衆は活聖《ヰワ、サンタ》マリア[#「マリア」に傍線]の聲に和しつゝ僧に隨ひて去れり。われはこれを避けて歩を轉ぜり。蔦蘿《つたかづら》に包まれたる水道の址《あと》とこれを圍める橄欖《オリワ》の茂林とは、黯澹《あんたん》たる一幅の圖をなして、わが刻下の情に※[#「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1−84−56]《かな》へり。われは又前《さき》に過ぎたる門を出でたり。門外に大廢屋あり。その城壘《じやうるゐ》たりしと寺觀たりしとを知らず。今の街道はその廣間を貫きて通ぜり。側《かたへ》なる細徑を下れば、小房の蜂※[#「穴/果」、第3水準1−89−51]《ほうくわ》の如きありて、常春藤《きづた》と石長生《はこねさう》とは其壁を掩ひ盡せり。進みて一の廣間に入るに、地に委《ゆだ》ねたる石柱の頭と瓦石の堆《たい》とは高草の底に沒し、こゝかしこに色硝子《いろガラス》の斷片を留めたる尖弧《ゴチツコ》式の窓をば幅廣き葡萄の若葉物珍らしげにさし覗き、數丈の高さなる墻壁《しやうへき》の上には荊棘《けいきよく》叢《むらが》り生ぜり。偶※[#二の字点、1−2−22]月光の一の壁面を照すを見れば、半ば剥蝕《はくしよく》せられたる鮮畫《フレスコ》は、箭《や》に貫《つらぬ》かれたる聖《サン》セバスチアノ[#「セバスチアノ」に傍線]の像を物せり。此廣間は絶えず遠雷の如き響ありて、四壁に反響す。われその響を追ひて狹き戸を濳り出でしに、道は「ミユルツス」と葡萄との鬱茂せる間に窮まりて、脚底|千仞《せんじん》の斷崖を形づくれり。一の瀑布ありてこれに懸る。月光其泡沫を射て、銀丸を擲《なげう》つ如し。凡そ此等の景は、なべて世の好奇心あるものを動かすに足るものなるべし。されど富時の我の憂愁に沈める、或は等閑に看過したらんも知るべからず。幸に我は此境に在りて、別に一事に遭ひたり。我は其事を我心上に血書して復た消滅すべからざらしめしが故に、亦併せて此景の詳《つばら》なることを記し得たり。
崖に沿ひて一條《ひとすぢ》の細徑《ほそみち》あり。迂※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]して初の街道に通ず。われは高萱《たかがや》を分け小草《をぐさ》を踏みて行きしに、月は高き石垣の上を照して、三人《みたり》の色蒼ざめたる首《かうべ》の、鐵格の背後《うしろ》より、我を覗《うかゞ》ふを見たり。こは山賊を梟《けう》せるなりき。ネピ[#「ネピ」に二重傍線]の人の此壁上に梟首するは、羅馬の人のアンジエロ[#「アンジエロ」に傍線]門(ポルタ、デル、アンジエロ)の上に梟首するに殊ならず。首を鐵籠中に置くことはた同じ。常の我ならば、遠く望みて走り去るべきに、此頃の痛苦は我に哲學思想を與へ、我をして冷眼もてこれを視ることを敢てせしめき。嗚呼、王侯の前に屈せざりし首よ、人を殺し火を放つ計《はかりごと》を出しゝ首よ、深山《みやま》の荒鷲に似たる男等の首よ。今は靜に身を籠中に托すること、人に馴れたる小鳥の如し。近づくこと一歩にして見れば、刎《は》ねられてよりまだ日を經ざるものと覺しく、鬚眉《しゆび》猶生けるがごとし。既にして我は中央なる首級の少しく異なるものあるを認め得たり。こは分明《ぶんみやう》に老女《おうな》の首なりしなり。我はこの褐《かち》いろの顏、半ば開ける※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶた》、格子の外に洩れ出でゝ風に亂るゝ銀髮を凝視して、我脈搏の忽ち亢進するを覺えき。われは眼を壁に懸けたる石版に注げり。版には土地《ところ》の習にて、梟せられたるものゝ氏名と其罪科とを彫《ゑ》りたり。果せるかな、中央に老女フルヰア[#「フルヰア」に傍線]、フラスカアチ[#「フラスカアチ」に二重傍線]の産と記せり。
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