ノ二重傍線]に往くに先だちて、一たび媼の許には來ざりしぞ。我はかくても猶自ら辯護して、我は善き人ぞといはんとするか。
われは彼金包を取りいで、我身邊に帶び來りし錢をも添へて、悉く童に與へつ、童は土間に跪《ひざまづ》きて、我を天使と呼べり。我が爲めには此詞の嘲謔《てうぎやく》の意あるが如く聞えて、我は此|家《や》の内にあるに堪へず、一つの憂をもて來し身の、今は二つの憂を懷《いだ》きて、逃るが如く馳せ去りぬ。
未錬
カムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]の野より御館までは、いかにして歸り着きけん知らず。われは限なき苦惱を覺えて、我|臥床《ふしど》の上に僵《たふ》れ臥しゝに、忽ち高熱を發して人事を知らざること三晝夜なりき。看病にはフエネルラ[#「フエネルラ」に傍線]とて、聾《みゝし》ひたる女を附けられしかば、幸に我|譫語《うはごと》も人に怪まるゝことあらざりしならん。されどフアビアニ[#「フアビアニ」に傍線]公子の屡※[#二の字点、1−2−22]病床に來給ひぬといふは、猶胸苦しき心地ぞする。
我恢復は頗る遲かりき。館の人に見舞はるゝごとに、我は勉《つと》めて面を和《やはら》げ快《こゝろよ》げにもてなせども、胸の中の苦しさは譬へんに物無かりき。此間人々は一たびも小尼公《アベヂツサ》の名を我前に唱ふることなかりき。かくて小尼公の尼寺に入り給ひしより、六週の後となりし時、醫師《くすし》は始て我に戸外《とのも》を逍遙することを許しつ。
我は期《ご》する所あるに非ずして、ポルタ、ピア[#「ポルタ、ピア」に二重傍線]の傍に立ち、目を四井街《クワトロ、フオンタネ》の方に注ぎつ。されど我は猶心に憚《はゞか》りて、尼寺の門に到ることを果さゞりき。二三日の後、我は新月の光を趁《お》ひて、又同じところに來しに、こたびは自ら禁ずること能はずして、進みて灰色の寺壁の下に立ち、格子窓を仰ぎ視たり。我は自らことわりて、誰かわが此墳墓を展《み》るを難ずることを得んと云ひぬ。これよりして、我足は日として四井街に向はざることなく、偶※[#二の字点、1−2−22]《たま/\》識る人に逢ふことあれば、散歩のゆくてはヰルラ、アルバニ[#「ヰルラ、アルバニ」に二重傍線]なりと欺《あざむ》きつ。
我足の尼寺の築泥《ついぢ》の外に通ふこと愈※[#二の字点、1−2−22]繁く、我情の迫ること愈※[#二の字点、1−2−22]切に、われはこの通路《かよひぢ》の行末いかになるべきかを危《あやぶ》まざること能はざるに至りぬ。果せる哉、ある暗き夕我が尼寺の一窓の微《かすか》に燈光を洩せるを仰ぎ見て、心に小尼公をおもふ時、忽ち傍よりアントニオ[#「アントニオ」に傍線]と呼ぶものあるを聞きつ。アントニオ[#「アントニオ」に傍線]、おん身はこゝに何をか爲せる。我は頭《かうべ》を囘《めぐら》して公子の面を認め得たり。公子は直ちに我を促して共に歸りぬ。公子は途上復たわれと一語を交へざるに、われは心に公子の思はん程の恥かしくて、その面を見ることを敢てせざりき。我室に入りて相對せる時、公子容《かたち》を改めて宣給ふやう。アントニオ[#「アントニオ」に傍線]よ。御身の病はまだ痊《い》えずと覺し。少しく世の人に立ち交りて、氣鬱を散ぜんかた、身の爲めに宜しからん。曩《さき》にはおん身一たび翼を張りて飛ばんとせしを、われ強ひて抑留し、おん身をして久しく樊籠《はんろう》の中にあらしめき。そは我過《あやまち》にはあらざりしか。人各※[#二の字点、1−2−22]意志あり。行かんと欲するところに行き、住《とゞ》まらんと欲するところに住まりて、さて不幸に遭《あ》はば、そは自ら作《な》せるなれば、悔ゆることもあらざるべし。おん身は最早童にあらねば、人の監督を受くることをば喜ばざるべし。この頃|醫師《くすし》に謀《はか》りしに、これも轉地を勸めたり、拿破里《ナポリ》の方《かた》をば既に見つれば、こたびは北伊太利を見に往けかし。一とせの間の費《つひえ》をば、われいかにともすべし。此館にありし間の我等の待遇には、おん身は或は慊《あきたら》ざりしならん。されど又世間に出でゝは、誠の心もておん身を待つ人少きことを忘れ給ふな。われ等は未來|一年《ひとゝせ》の間のおん身の振舞を見て、過去の我等の待遇のおん身に利ありしか利あらざりしかを驗《ため》すべしといはれぬ。
公子は我答を待たずして室を出で給ひぬ。こは我に謀るにあらずして我に命ずるものなればなり、我に命ずるは我を逐《お》ふものなればなり。世途は艱難ならん。されどその我を毒すること今の生涯に孰與《いづれ》ぞ。今や公子はわれに自由を與へ給ふ。こは仙方なり、靈藥なり。われは只だその仙方靈藥の劇毒の如く我創痍を刺し、我に苦痛を與ふるを感ずるのみ。去らんかな、羅馬を去らん
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