着たる一群の尼達現れ、高く天使の歌を歌ふ。僧官《エピスコポス》は姫の手を取りて扶《たす》け起しつ。姫は早や天に許嫁《いひなづけ》し給ひて、御名さへエリザベツタ[#「エリザベツタ」に傍線]と改まりぬ。我は姫の群集の上に投じ給ふ最後の一瞥を望み見たり。一人の故參の尼は姫の手を引きて入りぬ。黒漆の格子は下りて、姫の姿、姫の裳裾《もすそ》は見えずなりぬ。

   なきあと

 ボルゲエゼ[#「ボルゲエゼ」に傍線]家の館《たち》は賀客|絡繹《らくえき》たり。エリザベツタ[#「エリザベツタ」に傍線]の天に許嫁せしを賀するなり。フランチエスカ[#「フランチエスカ」に傍線]夫人は面に微笑を浮べて客に接し給へど、その良心のまことに平なるにあらざるをば、われ猶《なほ》能くこれを知れり。
 フアビアニ[#「フアビアニ」に傍線]公子は我を招きて一包の金を賜《たま》ひぬ。汝は好き方人《かたうど》を失ひぬれば、氣色すぐれず見ゆるも理《ことわり》なきにあらず。姫は我に此金を殘しおきて、カムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]の媼《おうな》に與へんことを頼み聞えぬ。想ふに姫はドメニカ[#「ドメニカ」に傍線]の上を汝に聞きて知りたりしならん。持ち往きて與へよとなり。
 死は蛇の如く我心を纏へり。我は自殺の念の一種の旨味《うまみ》あるを覺えて、心に又此念の生じ來れるを怖れたり。御館の廣き間ごと間ごとに、我はうらさびしき空虚を感ぜり。我はこゝを出でゝカムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]の野に往かんことの樂しかるべきをおもひぬ。そは我搖籃のありつる處、ドメニカ[#「ドメニカ」に傍線]が子もり歌の響きし處の、今更に懷《なつか》しき心地したればなり。
 カムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]の廣き野は、この頃の暑さに焦げ爛《たゞ》れて、些《いさゝか》の生氣をだに留めざりき。黄なるテヱエル[#「テヱエル」に二重傍線]の流の、層々の波を滾《まろが》し去るは、そをして海に沒せしめんが爲めなるべし。われは又|蔦蘿《つたがづら》の壁にまとひ屋根にまとへる、小さなる石屋《いはや》を見たり。是れ實にわが少時の天地なりしなり。門の戸は開けり。われは媼の我を見て喜ぶべきを思ひて、胸に樂しく又哀なる一種の感を起しつ。先に此家をおとづれてより、早や一とせを經ぬ。先に羅馬にて彼媼を見しより、早や八月を經ぬ。此間われは媼を忘れたりしならず、起臥《おきふし》ごとに思ひ出でゝ、小尼公《アベヂツサ》にも語り聞せつ。されどチヲリ[#「チヲリ」に二重傍線]の避暑、御館にかへりて後の心の憂などは、我を妨げてカムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]に來させざりしなり。家の見え初めてより、われは媼の歡び迎ふる詞を想像しつゝ、歩を早めたりしが、家の門近くなりては、又|跫音《きようおん》の疾く聞えんことを恐れて、ぬきあししつゝ進み寄りぬ。
 門口より見るに、土間の中央に籘《とう》を折り加《く》べて火を燃やし、大いなる鐵の銚《なべ》を弔《つ》りたり。その下に火を吹く童ありて、こなたへ振り向くを見ればピエトロ[#「ピエトロ」に傍線]なり。昔はわれ此童の搖籃を護りしことありしに、此頃はいと逞《たくま》しきものにぞなりぬる。聖《サン》ジユウゼツペ[#「ジユウゼツペ」に傍線]、檀那《だんな》の來ましつるよ、さきに來ましゝより早や久しくなり候ふとて、立ち上りて迎へぬ。わがさし伸ばす手に、童の接吻せんとするを遮りつゝ、われ、無面目《つれな》くも忘られしよとおもへるならん、忘れたるにはあらずとことわりつ。童。否、母もさは思ひ候はざりき、生存《ながら》へたらばいかに嬉しとおもふらんものを。われ。何とか言ふ。ドメニカ[#「ドメニカ」に傍線]は最早世にあらずとか。童。地の下に埋めてより、既に半年になりぬ。病みしは僅に二日ばかりなりしが、その間アントニオ[#「アントニオ」に傍線]、アントニオ[#「アントニオ」に傍線]とのみ呼び續け候ひぬ。わがかく檀那の御名《おんな》をいふを無禮《なめ》しとおもひ給ふな。母は唯一目アントニオ[#「アントニオ」に傍線]を見て死なんといひき。今宵はとおもはれし日の午過《ひるす》ぎて、われは羅馬の御館《みたち》に參りしに、檀那はチヲリ[#「チヲリ」に二重傍線]に往き給ひし後なりき。歸りて見れば、母は息絶えたり。言ひ畢《をは》りて、ピエトロ[#「ピエトロ」に傍線]は手もて面を掩《おほ》ひぬ。
 ピエトロ[#「ピエトロ」に傍線]が物語は、句ごとに言《ことば》ごとに、我胸を刺す如くなりき。恩情母に等しきドメニカ[#「ドメニカ」に傍線]が、死に垂《なんな》んとして我名を呼びしとき、我は避暑の遊をなして、心のどかに日を暮しつ。媼の餘命いくばくもあらぬをば、われ爭《いか》でか知らざらん。何故に我はチヲリ[#「チヲリ」
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