{越」、第3水準1−86−11]《なみき》の間を歩むとき、路上に襤褸《ぼろ》を纏《まと》ひたる貧人の群の草を拔くありき。われそが一人に「パオロ」銀一箇(我二十錢餘)を與へしに、姫もまた微笑みつゝ一箇を與へ給ひぬ。草拔く人は、美しき姫君と壻君《むこぎみ》とに聖母《マドンナ》の御惠あれかしと呼びたり。フランチエスカ[#「フランチエスカ」に傍線]夫人はこれを聞きて高く笑へり。われは熱血の身を焦すを覺えて、姫の面を覗ふことを敢てせざりき。われは今明に姫の我が爲めに離れ難き人となりしを覺りぬ。されど此情は嘗てアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]の爲に發せしと※[#「二点しんにょう+向」、第3水準1−92−55]《はるか》に殊にて、又ララ[#「ララ」に傍線]に對して生ぜしとも同じからず。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]の才《ざえ》と色とは殆ど我をして狂せしめ、ララ[#「ララ」に傍線]の理想めきたる美は魔力を吾頭上に加へ、並に皆我をしてその人を我物にせん願を起さしめしなり。獨り小尼公《アベヂツサ》に至りては、我友情を催すこと極て深きに、われは却《かへ》りて又我慾念のこれが爲めに抑へらるゝを覺えき。
 幾《いくばく》もあらぬに我等は又羅馬に歸りぬ。姫は二三週の後には尼寺に返り給ふべく、返り給ひては直ちに覆面の式を行はせらるべしと傳ふ。姫の長き髮はこれを截《き》り、その身には生きながら凶衣を被らしめ、輓歌《ばんか》を歌ひ鯨音《かね》を鳴し、法《かた》の如く假に葬《はうむ》りて、さて天に許嫁《いひなづけ》せる人となりて蘇生せしむ。是れ式のあらましなり。姫は面に喜の色を湛へてこれを語りぬ。われは聞くに忍びずして、いかなれば君は自ら壙穴《つかあな》を穿《うが》ちて自ら下り入らんとはし給ふぞといひぬ。姫は色を正して、さる詞を人にな聞せそ、此塵の世に心|牽《ひ》かるゝことおん身の如くならんも拙《つたな》し、少しは後の世の事をも思へかしと宣給ふ。その聲音《こわね》さへ常ならぬに我はいたく驚きぬ。霎時《しばし》ありて、姫は詞の過ぎたるを悔み給ひしにや、面に紅を潮して我手を取り、アントニオ[#「アントニオ」に傍線]とても我心の平和を破り、我に要《えう》なき物思せさせんとにはあらざるべしと宣給ふ。我は詞なくて姫の金蓮の下に臥し轉《まろ》びつ。
 別《わかれ》の舞踏會は御館《みたち》にて催されぬ。われは姫の最後に色ある衣《きぬ》を着け給ふを見き。是れ人々の生贄《いけにへ》の羔《こひつじ》を飾れるなり。姫は我傍に歩み寄りて、おん身も人々の歡《よろこび》を分ち給はずや、われ若しおん身の憂はしき面を見て別れ去らば、尼寺に入りて後に屡※[#二の字点、1−2−22]御身の上を氣づかふならん、かくてはおん身我に罪障を増させ給ふなりと宣給ふ。其聲は我が爲めに、瀕死の人の氣息を聞くが如くなりき。
 出立ち給ふ前の日の夕となりぬ。姫は神色常の如く、父君と老侯とに接吻して、あすの別の事を語り給ふ。其詞つきの、唯だ假初《かりそめ》の旅路|抔《など》に出立《いでた》ち給ふにかはらぬぞ、なか/\に哀なりける。アントニオ[#「アントニオ」に傍線]に暇乞《いとまごひ》せずやといふは、フアビアニ[#「フアビアニ」に傍線]公子の聲なり。坐上にて、獨り此君のみは面に憂の色を帶び給へり。我は趨《はし》りて姫の前に出で、白く細き右手に接吻せり。姫はアントニオ[#「アントニオ」に傍線]と我名を呼び掛け給ひしが、流石にしばし口籠《くごも》りて、世に幸《さち》ある人となり給へ、さらばとて、我額に接吻し給ふ。われは夢心に其間を走り出でゝ、我室に泣きに入りぬ。
 終にその日とはなりぬ。空は晴れ渡りて、日は麗《うらゝ》かに照りぬ。我は父君母君の盛妝《せいさう》せる姫を贄卓《にへづくゑ》の前に導き行き給ふを見、歌頌の聲を聞き、けふの式を拜まんとて來り集へる衆人の我|四邊《めぐり》を圍めるを覺えき。されど僧徒の群に引かれてつくゑの前に跪き給へる、天使の如き姫君の、色白く優しげなる面のみは、我心の上に殊に明かなる印象を與へて、年經ての後も消ゆることなかりき。我は僧等の姫が頭上の紗《うすぎぬ》を剥《は》ぎて、雲の如き※[#「髟/丐」、第4水準2−93−21]髮《ひんぱつ》の亂れ墜《お》ちて兩の肩を掩《おほ》へるを見、これを斷つ剪刀《はさみ》の響を聞きつ。僧等は幾|襲《かさね》の美しき衣を脱がせて、姫を柩《ひつぎ》の上に臥させまつり、下に白き希《きれ》を覆ひ、上に又|髑髏《どくろ》の文樣《もんやう》ある黒き布を重ねたり。忽ち鐘の音聞えて、僧等の口は一齊に輓歌《ばんか》を唱へ出しつ。かくて姫は此世を隱れましゝなり。爾來《そのとき》尼院に連《つらな》れる廊道《わたどのみち》の前なる黒漆の格子|擧《あが》りて、式の白衣
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