tめる人の笑ひ樂みて日を送れるこそ神の惠ならめ。神は憫《あはれ》むべき人類のために、おそろしき地下のさまを掩ひ隱し給ふとおぼし。君は此水をすらおそろしと見給へども、ナポリ[#「ナポリ」に二重傍線]の市《まち》の地下のさまはいかなるべきか。此は水なり、彼は火なり。かしこの民は、沸き返る熔巖《ラワ》の釜の上に生涯を送れるなりと答へぬ。我又語を繼ぎて、ヱズヰオ[#「ヱズヰオ」に二重傍線]の火山の形、わが其|巓《いたゞき》に登りし時の事、エルコラノ[#「エルコラノ」に二重傍線]とポムペイ[#「ポムペイ」に二重傍線]との來歴など、姫に聞えまつりしに、姫は耳を傾け給ひて、館に還りての後、猶|大澤《たいたく》の彼方《あなた》の珍らしき事どもを語り聞せよと宣給ひぬ。
姫は海のいかなるものなるを想ひ見ること能はずと宣給ふ。そは親しく海と云ふ者を觀給ひしは唯一たびにて、それさへ山の巓より、地平線を限れる一帶の銀色したる物を認め給ひしに過ぎざればなり。われは姫に告げて、まことの海原は我脚底に又一の碧空を視る如しと云ひしに、姫は手を組み合せて、神の此世界を飾り給ひしことの極みなく奇《く》しきをたゝへ給ひぬ。この時我は、その奇しく妙《たへ》なる世界を背にして、狹き尼寺の垣の内に籠らんとし給ふ御心こそ知られねと云はんと欲せしが、姫の思ひ給はん程のおぼつかなくて默《もだ》しつ。ある日姫と我等とは、荒れたる神巫寺《みこでら》の傍に立ちて雲霧の如く漲り下る二條の大瀑《たいばく》を下瞰《みおろ》したり。一道の白き水烟は、小暗《をぐら》き林木を穿ちて逆立し、その末は青き空氣の中に散じ、日光はこれに觸れて彩虹を現じ出せり。側なる小瀑《カスカテルラ》の上なる岩窟には、一群の鴿《はと》ありて巣を營みたり。その時ありて大いなる圈《わ》を畫きて、我等の脚下を飛ぶや、噴珠と共に亂れて、見る目まばゆき程なり。姫は歎賞すること久しうして、我に即興を求め給へり。われは平生|夢寐《むび》の間に往來する所の情の、終に散じ終に銷《せう》すること此飛泉と同じきを想ひて、忽ち歌ひ起していはく。人生の急湍《きふたん》は須臾《しゆゆ》も留まることなし。太陽同じく照すといへど、一滴一沫よりして見れば、その光を仰ぎその温を被らざるあり。惟《た》だ美妙の大光明は全景を覆ひ盡すのみと云ひぬ。姫は我歌を遮り留めて、止めよ、われは悲傷の詞を聞かんことを願はず、汝が心まことに樂しからずば、姑《しばら》く我が爲めに歌ふことを休《や》めよと宣給ひぬ。
姫の我を信じ給ふことの厚きは、我が姫を信ずることの厚きに殊ならず。ある時姫の詞に、いかなる故とも知る由なけれど、館に往來《ゆきき》する他の男子には語り難き事をも、おん身には語り易し、御身の親しきは父母に劣らざる心地すといはれしことあり。されば我もまた心を置かで、何くれとなく物語するやうになりぬ。幼かりし日の事を語りて、地下の石窟《いはむろ》に入りて路を失ひし話よりジエンツアノ[#「ジエンツアノ」に二重傍線]の花祭に老侯の馬車の我母を轢殺《ひきころ》せし話に至りしときは、姫の驚|一方《ひとかた》ならざりき。姫は我手を※[#「てへん+參」、125−上段−13]《と》りて、我面を打目守《うちまも》り、その事をば館の人々まだ一たびも我に告げざりき、さては我|族《うから》の御身に負ふ所はいと大いなりと宣給ひぬ。カムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]の媼《おうな》ドメニカ[#「ドメニカ」に傍線]には、姫深き同情を寄せ給ひて、おん身は定めて今も怠らずおとづれ給ふなるべしと宣給ひぬ。われは少しく心に恥ぢながら、去年は唯だ二たび訪ひしのみなれど、彼方より尋ね來たるごとに、些《ちと》の小づかひ錢をば分ち與ふるを例とすと答へぬ。
われは姫に促されて、我自傳を語りつゞけ、ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]の上に及び、又アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]の上に及びぬ。されど我面に注ぎたる姫の涼しき目は、我をして縱《ほしいまゝ》に戀愛を説き嫉妬を説くこと能はざらしめき。われは話題を轉じてナポリ[#「ナポリ」に二重傍線]の紀行に入り、ララ[#「ララ」に傍線]の事を語り、こたびは又サンタ[#「サンタ」に傍線]の事にさへ及びぬ。
最も姫の心に※[#「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1−84−56]《かな》ひしはララ[#「ララ」に傍線]なり。姫の宜給ふやう。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]は美しくもありしなるべく、賢《さか》しくもありしなるべし。されど面を公衆の前に曝《さら》すことを憚《はゞか》らず、浮薄なる貴公子を戀ひ慕へるなど、われはいかなる詞もて評すべきを知らぬながら、その人のおん身の妻とならざりしをば喜ぶなり。ララ[#「ララ」に傍線]はこれに異《こと》にて、ま
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