ラし。さればそを指《ゆびさ》し示して、世の人をして神の懷に歸り入らしめんこそ、詩人の務とはいふべけれ。さるを却りて世の人を驅りて、おそろしき呑噬《どんぜい》爭奪の境界に墮ちしめんとする如くなるは、好しとはおもはれず。そは兎まれ角まれ、おん身はいかにして即興の詩を歌ひ給ふか。われ。題を得るときは思想は招かずして至るものなり。姫。さなり。其思想は神の賜ふ所なること人皆知る。されどそを句とし章とし、それに美しき姿しらべを賦《ふ》し給ふは奈何《いかに》。われ。君は尼寺に居給ふとき、「プサルモス」の歌を聽き、又古の聖《ひじり》の上を綴りたる韻語を學び給ひしならん。さてある時端なく一の思想の浮び出づるに逢ひて、これと與《とも》に曾て聞ける歌、曾て聞ける韻語を憶《おも》ひ得給ひしことはあらずや。憾《うら》むらくは、おん身はかゝる機會を逸し給ひて、筆とりて其思想を寫さんことを試み給はざりしなり。おん身若しそを試み給ひしならば、思想の全き形の心頭に顯れたるものは凝りて散ぜず、句は句を生じ章は章を生じ、詩は無意識の間になりしならん。こは唯だ我一人の經驗ながら、詩人の製作といふものはかくあらんとおもふなり。われは詩を作るごとに、我詩の前世の記憶の如く、前身の搖籃中にて聞きし歌の名殘の如きを感ず。われは創作すと感ぜず、われは復誦すと感ず。姫。その思想といふものも、いかなるが詩となすに宜《よろ》しかるべきか知るよしなけれど、わが尼寺にありし時、ふと物の懷《なつ》かしき如き情、遠きに騁《は》する如き情の胸に溢るゝことあり。その懷かしきは何ぞ、その騁するは何をあてぞといはば、われ自ら答ふるところを知らず。されど夢に吾夫《わがつま》たるべき耶蘇《やそ》を見、又|聖母《マドンナ》を見るときは、我心はこれに慰められたり。かゝる情も詩となるべしや否や、覺束《おぼつか》なし。館《たち》に歸りての後は、耶蘇聖母の夢に見え給ふこと稀にして、華やかなる浮世の事、罪深き人間の事のみ夢に入りぬ。されば唯だ尼寺に返らんことこそ願はしけれ。アントニオ[#「アントニオ」に傍線]よ。おん身は親しき友なれば告ぐべし。われはこの頃漸く心の汚れんとするを覺ゆるなり。そは粧ひ飾らんとする願起りて、人の美しと褒むるが喜ばしくなれるにて知らる。尼寺の人々に知られなば、何とかいはれん。われ。世に君の如く淨き心あるべしや。われは唯だ我心の君に似ざるを愧《は》づるのみ。今我目もて見るときは、君の心の淨さは、昔|穉《をさな》くて此御館に居給ひし日に殊ならず。(われはかく言ひて姫の手に接吻せり。)姫。その頃おん身の我を抱き給ひしこと、我が爲めに畫かきて賜はりしことをば、まだ忘れ侍らず。われ。おん身の其畫を看畢《みをは》りて、破《や》り棄て給ひしをも、われは忘れず。姫。そを憎しとおもひ給ひしや。われ。世の人は我胸中なる美しき繪の限を破り棄てぬれど、われはそれすら憎むことなし。
わが小尼公《アベヂツサ》に親む心は日にけに増さり行きぬ。われは世の人の皆我敵にして、唯だ小尼公のみ身方《みかた》なるを覺えき。
落飾
暑き二箇月の間は、館《たち》の人々チヲリ[#「チヲリ」に二重傍線]に遊び給ひぬ。わがその群に入ることを得つるは、恐らくは小尼公の緩頬《くわんけふ》に由れるなるべし。橄欖《オリワ》の茂き林、石走《いははし》る瀧津瀬《たきつせ》など、自然の豐かに美しき景色の我心を動すことは、嘗てテルラチナ[#「テルラチナ」に二重傍線]に來て始て海を觀つる時と殊なることなかりき。この山のたゝずまひ、この風の清く涼しきに、我は復たナポリ[#「ナポリ」に二重傍線]の夢を喚び起すことを得たり。我は羅馬《ロオマ》の塵多き衢《ちまた》、焦げたるカムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]の野、汗流るゝ午景を背にせしを喜びて、人々の我を伴ひ給ひしを謝したり。
小尼公の侍女と共に驢《うさぎうま》に騎《の》りてチヲリ[#「チヲリ」に二重傍線]の谷間に遊び給ふときは、我はこれに隨ひ行くことを許されたり。姫は頗る自然を愛する情に富みて、我に些の寫生を試みしめ給ひぬ。荒漠たるカムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]の野の盡くるところに、聖彼得《サン、ピエトロ》寺の塔の湧出したる、橄欖の林、葡萄の圃《はたけ》の緑いろ濃く山腹を覆ひたる、瀑布幾條か漲《みなぎり》り墮《お》つる巖の上にチヲリ[#「チヲリ」に二重傍線]の人家の簇《むらが》りたるなど、皆かつがつ我筆に上りしなり。
終の圖に筆を染むる時、姫の宣給《のたま》ふやう。かく麓より眺むれば、この落ちたぎつ水の勢は、早晩《いつか》巖石を穿ち碎き、押し流して、その上なる人家も底《そこひ》なき瀧壺に陷らずやと怖しく思はると宣給ふ。われ。まことに宜給ふ如し。されどそを憂へずして、彼家々に栖《す
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