R水準1−87−64]の間に僵《たふ》しつ。我は夢心地の間に姫を抱き起しつ。人々は何事やらんと馳せ集《つど》へり。
 フランチエスカ[#「フランチエスカ」に傍線]夫人は聖母《マドンナ》の御名を唱へつ。我手に抱き上げられたる姫は、眞蒼《まさを》なる顏もて母上を仰ぎ見つゝ、足すべりて爐の中に倒れ、手少し傷け侍り、アントニオ[#「アントニオ」に傍線]なかりせば大いなる怪我をもすべかりしをと宣給ひぬ。われは激しき感情に襲はれて、口に一語を發すること能はず、只だ喪心せるものゝ如くなりき。
 姫は右手《めて》を劇《はげ》しく燒き給へり。一家の騷擾《さうぜう》は一方ならず。彼問ひ此答ふる繁《しげ》き詞の中にも、幸にして人の我詩卷を問ふ者なく、我も亦|默《もだ》ありければ、ダヰツト[#「ダヰツト」に傍線]の詩篇の事は終に復た一人の口に上ることなかりき。あらず、後に至りてこれに言ひ及びし人唯一人あり。そは我が爲めに翼を焦しゝ天使なりき、小尼公なりき。嗚呼、小尼公なかりせば、われは全く厭世の淵に沈み果てしならん。われをして人の心の猶頼むべきを覺えしめ、われをして少時の淨き心を喚び返さしめたるは、げにこのボルゲエゼ[#「ボルゲエゼ」に傍線]一家の守護神たる小尼公なりき。小尼公の手は痛むこと十四日の間なりき。我胸の痛むことも亦十四日の間なりき。
 ある日われは獨り姫の病牀に侍することを得て、わが久しく言はんと欲するところを言ふことを得たり。われ。フラミニア[#「フラミニア」に傍線]の君よ、願はくは我罪を許し給へ。君は我が爲めに其苦痛を受け給へり。姫。否、その事をば再び口に出し給ふな。又ゆめ餘所に洩し給ふな。そが上に、さのたまふはおん身自ら歎き給ふにてこそあれ。我足のすべりしは事實なり。おん身若し扶《たす》け起し給はずば、わが怪我はいかなりけん。されば我はおん身の恩を荷《にな》へり。父母も然《し》か思ひて、御身のいちはやく救ひ給ひしを感じ給ひぬ。獨り此事のみにはあらず。父母の御身を愛し給ふ心のまことの深さをば、おん身は未だ全く知り給はぬごとし。われ。そは宣給《のたま》ふまでもなし。わが今日あるは皆御家の賜なり。かくて一日ごとに我が受くるところの恩澤は加はりゆくなり。姫。否、さる筋の事をいふにはあらず。わが二親《ふたおや》のおん身を遇し給ふさまをば、此幾日の間に我|熟《よ》く知れり。二親はかくするが好しとおもひ給ふなれば、そは奈何ともし難けれど、總ておん身を惡《あ》しとおもひ給ひてにはあらず。殊に母上の我に對しておん身を譽め給ふ御詞をば、おん身に聞せまほしきやうなり。師の尼君の宣給《のたま》ふに、おほよそ人と生れて過失なきものあらじとぞ。憚《はゞかり》あることには侍れど、おん身にも總て過失なしとはいひ難くや侍らん。例之《たとへ》ばおん身は、いかなれば一時怒に任せて、彼美しき詩を焚《や》き給ひし。われ。そは世に殘すべき價なければなり。唯だ焚くことの遲かりしこそ恨なれ。姫。否々、われは世の人の心の險《けは》しきを憶《おも》ひ得たり。靜かなる尼寺の垣の内にありて、優しき尼達に交らんことの願はしさよ。われ。げに君が淨き御心にては、しかおもひ給ふなるべし。我心は汚れたり。惠の泉の甘きをば忘れ易くして、一滴の毒水をば繰返して味ふこと、まことに罪深き業《わざ》にこそ侍らめと答へぬ。
 この館《たち》には一人として我を憎むものなし。されど尼寺の心安きには似ず。こは小尼公《アベヂツサ》の獨り我に對し給ふとき、屡※[#二の字点、1−2−22]宣給ひし詞なり。われはこの姫をもて我感情の守護神、わが清淨なる思想の守護神とし、漸くこれに心を傾けつ。想ふに姫の歸り來給ひしより、館の人々の我を遇し給ふさま、面色よりいはんも語氣よりいはんも、著《いちじろ》く温和に著く優渥《いうあく》なるは、この優しき人の感化に因るなるべし。
 姫は數※[#二の字点、1−2−22]《しば/\》我をして平生の好むところを語らしめ給ひぬ、詩を談ぜしめ給ひぬ。興に乘じて古人の事を談ずるときは、われは自ら我辯舌の暢達《ちやうたつ》になれるに驚きぬ。姫はもろ手の指を組み合せて、我面を仰ぎ見給ふ。姫。おん身の如く詩をもて業とするは、まことに人生の幸福なるべし。されど神の預言者たるべき詩人の、神の徳、天國の平和をば歌はで、人の業、現世の爭奪を歌ふは何故ぞ。おん身は世の人に福《さいはひ》を授け給ふことも多かるべけれど、又禍を遺し給ふことも少からざるならん。われ。否、詩人の人を歌ふは隨即《やがて》神を歌ふなり。神は己れの徳を表さんとて、人をば造り給ひしなり。姫。おん身の宣給ふところには、わが諾《うべな》ひ難き節あれど、われは我心を明《あか》すべき詞を求め得ず。人の心にも世のたゝずまひにも、げに神の御心は顯《あらは》れたる
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