ナ舌の翁を獲つ。我が本讀の前兆は太《はなは》だ佳ならざるが如くなりき。
我胸の跳ることは、嘗て「サン、カルロ」座の舞臺に立ちし時より甚しかりき。若し我が期するところの效果にして十分ならば、人々はこれを聽きて、その常に我を遇する手段の正しからざるを悟り、未來に於いて自ら改むるに至るならん。是れ一種の精神上の治療法なり。われは明かに我が期するところの難《かた》きを知る。さるを猶これを敢てするものは、深く自ら「ダヰツト」の一篇の傑作なることを信じたればなり、又小尼公の優しき目の暗に我を鼓舞するに似たるあるに感じたればなり。
我詩は一として自家の閲歴に本づかざる者なし。此篇も亦|然《しか》なり。首段は牧童たるダヰツト[#「ダヰツト」に傍線]の事を敍す。即ち我が穉《をさな》かりし頃、ドメニカ[#「ドメニカ」に傍線]にはぐゝまれてカムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]の茅屋《ばうをく》に住めりし時の境界《きやうがい》に外ならず。フランチエスカ[#「フランチエスカ」に傍線]の君聞もあへず、そは汝が上にあらずや、汝がカムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]の野にありし時の事に非ずやと叫び給へば、老侯笑ひて、そは預期すべき事なり、いかなる題に逢ひても、自家の感情をもてこれに附會することを得るはアントニオ[#「アントニオ」に傍線]が長技ならずやと答へ給ふ。ハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]は嗄《か》れたる聲振り絞りていふやう。句々洗錬の足らざるが恨なり、ホラチウス[#「ホラチウス」に傍線]の教を知らずや、唯だ放置せよ、放置してその熟するを待てといへり、おん身の作も亦然なり。
人々は早く既に一槌をわが美しき彫像に加へしなり。我は猶二三章を讀みしかど、只だ冷澹にして輕浮なる評語の我耳に詣《いた》り入るあるのみ。人々は又我肺腑中より流れ出でたる句を聞きて、古人《いにしへびと》某の集より剽竊《へうせつ》せるかと疑へり。嗚呼、初め我が人をして聳聽《そうちやう》せしむべく、怡悦《いえつ》せしむべき句ぞとおもひしものは、今は人々の一顧にだに價せざらんとす。我は第二折の末に到りて、興全く盡きぬれば、人々に謝して讀むことを止めたり。此に至りて、自ら我手中の詩篇を顧みれば、復た前《さき》の綽約《しやくやく》たる姿なくして、彼《かの》三王日の前夜フイレンチエ[#「フイレンチエ」に傍線]市を擔ひ行くなる「ベフアアナ」といふ偶人《にんぎやう》の、面色極めて奇醜にして、目には硝子球を嵌《は》めたるにも譬へつべきものとなりぬ。是れ聽衆の口々より※[#「口+罅のつくり」、122−上段−20]《は》きたる毒氣のわが美の影圖をして此の如く變化せしめしにぞありける。
おん身のダヰツト[#「ダヰツト」に傍線]は市井《しせい》の俗人をだに殺すことなからん、とはハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]が總評なりき。人々は又評して宣給ふやう。篇中往々好き處なきにあらず。そは情深きと無邪氣なるとの二つに本づけりとなり。我は頭を低《た》れて口に一語を出さず、罪囚の刑の宣告を受くるやうなる心地にて、人々の前に凝立せり。ハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]は再びホラチウス[#「ホラチウス」に傍線]の教を忘れ給ふなと繰返しつゝも、猶|慇懃《いんぎん》に我手を握りて、詩人よ、懋《つと》めよやと云ひぬ。我は室の一隅に退きたりしが、暫しありて同じハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]が耳疎き人の癖とて、聲高くフアビアニ[#「フアビアニ」に傍線]公子にさゝやくを聞きつ。そは杜撰《づさん》彼篇の如きは己れの未だ嘗て見ざるところぞとの事なりき。
人々は我詩を解せざらんとせり。又我を解せざらんとせり。こは我が忍ぶこと能はざるところなり。室の隣には、開爐《カムミノ》に炭火を焚きたる廣間あり。われはこれに退き入り、手に詩稾《しかう》を把《と》りて、爪甲《さうかふ》の掌《たなぞこ》を穿たんばかりに握りたり。嗚呼、我夢は一瞬の間に醒め、我希望は一瞬の間に破壞せられたり。我身は神の御姿《みすがた》の摸造ながら、自ら顧みれば苦※[#「穴/(瓜+瓜)」、122−中段−15]《くゆ》の器に殊ならず。われは我|鍾愛《しようあい》の物、我がしば/\接吻せし物、我が心血を漑《そゝ》ぎし物、我が性命ある活思想とも稱すべき物をもて、熾火《しくわ》の裡に擲《なげう》ちたり。我詩卷は炎々として燃え上れり。忽ちアントニオ[#「アントニオ」に傍線]と叫ぶ一聲我身邊より起りて、小尼公《アベヂツサ》の優しき腕《かひな》の爐中の詩卷を攫《つか》まんとせし時、事の慌忙《あわたゞ》しさに足踏みすべらしたるなるべし、この天使の如き少女はあと叫びて、横ざまに身を火※[#「諂のつくり+炎」、第
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