フ語調はいと温和にて、怨み憤る色もなく辨《わきま》へ難ずる色もなし。われは心の内にて、この優しき小尼公の前に跪《ひざまづ》かんとしたり。この時フランチエスカ[#「フランチエスカ」に傍線]の君も、げに/\をかしき物語なりきと宣給ふ。われは心《むね》の跳るを覺えて、そと人々に遠ざかり、身を長き幌《とばり》の蔭に隱して、窓の外なる涼しき空氣を呼吸したり。
 この一口話の事をば、われ唯だ一の例として、かく詳《つぶさ》にはしるしゝなり。これより後も、日としてこれに似たる辱《はづかしめ》を被《かうむ》らざることなかりき。唯だ小尼公のすゞしき目の我面を見上げて、衆人の罪惡の爲めに代りて我に謝するに似たるありて、われはその辱の疇昔《さき》よりも忍び易きを覺えたり。竊《ひそか》におもふに我にはまことに弱點あり。そを何ぞといふに、影を顧みて自ら喜ぶ性《さが》ありて、難きを見て屈せざる質《うまれ》なきこと是なり。そもこの弱點はいづれの處よりか生ぜし。生を微賤の家に稟《う》けしにも因るべく、最初に受けし教育にも因るべく、又恆に人の廡下《ぶか》に倚る境遇にも因るなるべし。我は胸に溢れ口に發せんと欲するところのものあるごとに、必ず先づ身邊の嘗て我に恩惠を施したる人々を顧みて、自ら我舌を結び、終に我不屈不撓の氣象を發展するに及ばずして止みぬ。若し自から辯護して評せばこも謙讓の一端なるべし。されどその弱點たることは到底|掩《おほ》ふべからざるを奈何せん。
 今の勢をもてすれば、その恩義の絆《きづな》を斷たんこといとむづかし。人々は我にいかなる苦痛を與へ給はんも、我が受けたるところの恩義は飽くまで恩義なり。そは人々なかりせば、我は或は饑渇《きかつ》の爲めに苦《くるし》められけんも計り難きが故なり。我が人々の爲めに身にふさはしき業《わざ》して、恩義に酬《むく》いんとせしことは幾度ぞ。我は報恩の何の義なるかを知らざるにあらず、良心のいかなるものなるかを解せざるにあらず。いかなれば人々は此良心の發動、報恩の企圖を妨碍《ばうがい》して、天才は俗事に用なしといひ、又思想多きに過ぎて世務に適せずといふぞ。若しまことに天才を視ること此の如く、思想を視ること此の如くならば、そは天才をも思想をも知らざるなり。
 その頃我は大闢《ダヰツト》を題として長篇を作りぬ。この詩は字々皆我心血なりき。昔の不幸なる戀と拿破里《ナポリ》客中の遭遇とは、常に胸裡に往來して、侯爵家の人々の所謂教育は斷えず腦髓を刺戟し、我を驅りて詩國に入らしめ、我心頭には時として我生涯の一篇の完璧をなして浮び出づることあり。その中にはいかなる瑣細なる事も、いかなる厭ふべく苦むべき事も、一として滿分の詩趣を具へざるはなかりき。我中情は此の如く詠歎の聲を迫《せ》り出して、我をしてダヰツト[#「ダヰツト」に傍線]の故事の最も當時の感興を寓するに宜しきを覺えしめしなり。
 詩成りて、我は復たその名作たるを疑はざりき。而して我は神に謝する情の胸に溢るゝを見たり。そは我平生の習として、一詩句を得るごとに、未だ嘗て神の我靈魂を護りて、詩思を生ぜしめ給ふを謝せざることあらざればなり。此作は我心の瘡痍《さうい》を醫《いや》すべき藥液なりき。我は自ら以爲《おも》へらく。人々若し我此作を讀まば、その我に苦痛を與ふることの非なるを悟りて、善く我を遇するに至るならんと。
 詩成りて、作者より外、未だ一人の肉眼のこれに觸れたるものあらず。この塵を蒙《かうむ》らざる美の影圖は、その氣高《けだか》きこと彼「ワチカアノ」なるアポルロン[#「アポルロン」に傍線]の神の像の如く、儼然《げんぜん》として我前に立てり。嗚呼、この影圖よ。今これを知りたるものは、唯だ神と我とのみ。我は學士會院に往きてこれを朗讀すべき日を樂み待てり。
 さるを一日《あるひ》フアビアニ[#「フアビアニ」に傍線]公子とフランチエスカ[#「フランチエスカ」に傍線]夫人との優しさ常に倍するを覺えければ、我は此二恩人に對して心中の祕密を守ること能はざりき。こは小尼公《アベヂツサ》の來給ひしより二三日の後なりきと覺ゆ。公子夫婦は聞きて、さらばその詩をば我等こそ最初に聽くべけれと宣給ふ。我は直ちに諾《だく》しつれど、心にはこの本讀《ほんよみ》の發落《なりゆき》いかにと氣遣はざること能はざりき。さて我詩を讀むべき夕には、老侯も席に出で給ふ筈なりき。此日となりて又期せずしてハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]の侯爵家を訪ふに會ひぬ。フランチエスカ[#「フランチエスカ」に傍線]はこれを留めて、渠《かれ》にも我が讀むべき詩を聽かしめんといひぬ。われは此翁の偏執の念強くして人の才を妬み、特に平生我を喜ばざるを知れり。公子夫婦の心|冷《ひやゝか》なる、既に好き聽衆とすべきならぬに、今又此
前へ 次へ
全169ページ中131ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
アンデルセン ハンス・クリスチャン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング