ト、まことは幼きより尼の裝《よそほひ》したる土偶《にんぎやう》を翫《もてあそ》ばしめ、又寺に在る永き歳月の間世の中の罪深きを説きては威《おど》しすかし、寺院の靜かにして戒行の尊きを説きては勸め誘《いざな》ひ、必ず寺に歸り入らしむる習なりとぞ。
 是より先きわれは四井街の邊を過ぐるごとに、この尼寺の築泥《ついぢ》の蔭にこそ、わが嘗て抱き慰めし姫君は居給ふなれ、今はいかなる姿にかなり給ひしと、心の内におもひ續けざることなかりき。一日《あるひ》われは尼寺に往きて、格子の奧にて尼達の讚美歌を歌ふを聽きしことあり。あの歌ふ人々の間に小尼公《アベヂツサ》はおはさずやとおもひしかど、流石《さすが》心に咎められて、教子《をしへご》として寺に宿れるものゝ、彼歌樂の群に加はるや否やを問ひあきらむることを果さゞりき。既にしてわれはこのもろ聲の中より、一人の聲の優れて高く又清く、一種言ふべからざる凄切《せいせつ》の調《しらべ》をなせるものあるを聞き出しつ。その聲のアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が聲にいと好く似たりければ、把住《はぢゆう》し難き我空想は忽ちはかなき舊歡の影をおもひ浮べて、彼ボルゲエゼ[#「ボルゲエゼ」に傍線]家の少女の事を忘れぬ。
 次の月曜日にはフラミニア[#「フラミニア」に傍線]こそ歸り來べけれと、老公|宣給《のたま》ひぬ。この詞はあやしく我情を動して、その人と成りしさまの見まほしさはよの常ならざりき。想ふに小尼公も亦我と同じき籠中《こちゆう》の鳥なり。こたび家に歸り給ふは、譬へば先づ絲もてその足を結びおき、暫し籠より出だして※[#「皐+羽」、第3水準1−90−35]翔《かうしやう》せしむるが如くなるべし。傷《いた》ましきことの極《きはみ》ならずや。
 わが姫の面を見しは午餐《ひるげ》の時なりき。げに人傳に聞きつる如くおとなびて見え給へど、世の人の美しとてもてはやす類《たぐひ》の姿《すがた》貌《かほばせ》にはあらざるべし。面の色は稍※[#二の字点、1−2−22]蒼かりき。唯だ惠深く情厚きさまの、さながらに眉目の間に現れたるがめでたく覺えられぬ。
 食卓に就きたるは近親の人々のみなり。されど一人の姫に我の誰なるを告ぐるものなく、姫も又我面を認め得ざるが如くなりき。さてわれは姫に對《むか》ひてかたばかりの詞を掛けしに、その答いと優しく、他の親族の人々と我との間に、何の軒輊《けんち》するところもなき如し。こは此|御館《みたち》に來てより、始ての※[#「疑のへん+欠」、第3水準1−86−31]待《もてなし》ともいひつべし。
 人々は打解けてくさ/″\の物語などし、姫は笑ひ[#「笑ひ」は底本では「答ひ」]給ふ。われは覺えず興に乘じて、その頃羅馬に行はれたりし一口話を語りぬ。姫はこれをも可笑《をか》しとて笑ひ給ふに、外の人々は遽《には》かに色を正して、中にもかゝる味なき事を可笑しとするは何故ならんなどいふ人さへあり。われ。しか宣給《のたま》へど、今語りしは近頃流行の一口話にて、都人士のをかしとするところなるを奈何《いかに》せん。夫人。否、おん身の話は掛詞《かけことば》の類のいと卑しきをさげとせり。人の腦髓のかくまで淺はかなる事を弄ぶことを嫌はざるは、げに怪しき限ならずや。嗚呼、我とても爭《いか》でかことさらに此の如き事のために、我腦髓を役せんや。我は唯だ世の人の多く語るところにして、我が爲めにもをかしとおもはるゝものなるからに、人々の一粲《いつさん》を博する料《しろ》にもとおもひし迄なり。
 日暮れて客あり。數人の外國人《とつくにびと》さへ雜りたり。われは晝間の譴責《けんせき》に懲りて、室の片隅に隱れ避け、一語をだに出ださゞりき。人々は圈《わ》の形をなして、ペリイニイ[#「ペリイニイ」に傍線]といふものゝめぐりに集へり。この人は齡《よはひ》略《ほ》ぼ我と同じくして、その家は貴族なり。心爽かにして頓智あり、會話も甚《いと》巧《たくみ》なれば、人皆その言ふところを樂み聽けり。忽ち人々の一齊に笑ふ聲して、老公の聲の特《こと》さらに高く聞えければ、われは何事ならんとおもひつゝ、少しく歩み近づきたり。然るに我は何事をか聞きし。晝間我が語りて人々の咎に逢ひし、彼《かの》一口話は今ペリイニイ[#「ペリイニイ」に傍線]の口より出でゝ人々に喝采せらるゝなりき。ペリイニイ[#「ペリイニイ」に傍線]は一句を添へず又一句を削《けづ》らず、その口吻態度|些《ちと》の我に殊なることなくして、人々は此の如く笑ひしなり。語り畢る時、老公は掌《たなぞこ》を撫して、側に立ちて笑ひ居たる姫に向ひ、いかにをかしき話ならずやと宣給へり。姫、まことに仰せの如くに侍り、けふ午《ひる》の食卓にて、アントニオ[#「アントニオ」に傍線]が語りし時より然《し》かおもひ侍りきと答へ給ふ。そ
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