見たり。この教育の六年の間、猶書かまほしき事なきにあらねど、今より顧みれば、皆流れて毒水一滴となり了《をは》んぬ。こは門地なく金錢なき才子の常に仰ぎ常に服するところのものにして、此毒水は此類の才子の爲には、人の呼吸するに慣れたる空氣に異ならずともいふべきならん。
 われは「アバテ」となりぬ。われは又即興詩人として名を羅馬人の間に知られぬ。そは「チベリナ」學士會院(アカデミア、チベリナ)の演壇の、我が上りて詩稾《しかう》を讀み、又即興詩を吟ずることを許しゝがためなり。されどフランチエスカ[#「フランチエスカ」に傍線]の君は、會院の吟誦には喝采を得ざるものなしといふをもて、わが自負の心を抑へ給へり。
 ハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]は會院中の最も名高き人なり。その名の最も高きは、その演説し著述することの最も多きがためなり。院内の人々は一人としてハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]の※[#「こざとへん+匚<夾」、119−上17]陋《けふろう》にして友を排し、褒貶《はうへん》並に過《あやま》てるを知らざるものなし。されど人々は猶この翁の籍を會院に掲ぐるを甘んじ允《ゆる》せり。ハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]は愈※[#二の字点、1−2−22]意を得て、只管《ひたすら》書きに書き説きに説けり。ある日我詩稾を閲《けみ》し、評して水彩畫となし、ボルゲエゼ[#「ボルゲエゼ」に傍線]家の人々に謂ふやう。アントニオ[#「アントニオ」に傍線]に才藻の萌芽ありしをば、嘗て我生徒たりしとき認め得たりしに、惜いかな、其芽は枯れて、今の作り出すところは畸形の詩のみ。アントニオ[#「アントニオ」に傍線]は古の名家の少時の作を世に公《おほやけ》にせしものあるを見て、或はおのれのをも梓行《しかう》せんとすることあらんか。そは世の嘲《あざけり》を招くに過ぎず。願はくは人々彼を諫《いさ》めて、さる無謀の企《くはだて》を思ひ留まらしめ給へとぞいひける。
 アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が上はつゆばかりも聞えざりき。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]は我が爲めには隔世の人たり。されどこの女子は死に臨みて、その冷なる手もて我胸を壓し、これをして事ごとに物ごとに苦痛を感ずることよの常ならざらしめしなり。ナポリ[#「ナポリ」に二重傍線]の旅と當時の記憶とは、なつかしく美しきものながら、今はその美しさの彼《かの》メヅウザ[#「メヅウザ」に傍線]に逢ひて化石したるにはあらずやとおもはれたり。(メヅウザ[#「メヅウザ」に傍線]は希臘神話中の恐るべき處女神にして、之を視るものは忽ち石に化したりといふ。)煖き巽風《シロツコ》の吹くごとに、われはペスツム[#「ペスツム」に二重傍線]の温和なる空氣をおもひ出して意中にララ[#「ララ」に傍線]が姿を畫き、ララ[#「ララ」に傍線]によりて又その邂逅の處たる怪しき洞窟に想ひ及びぬ。われは彼《かの》物教へんとする賢き男女の人々の間に立ちて、上校の兒童の如くなるとき、心にはむかし賊寨《ぞくさい》にて博せし喝采と「サン、カルロ」座にて聞きつる讙呼《くわんこ》の聲とを思ひ、又人々の我を遇すること極めて冷なるが爲めに、身を室隅に躱《さ》けたるとき、心にはむかしサンタ[#「サンタ」に傍線]がもろ手さし伸べて、我を棄てゝ去らんよりは寧ろ我を殺せと叫びしことをおもひぬ。六とせは此の如くに過ぎ去りて、我齡は二十六になりぬ。

   小尼公

 フアビアニ[#「フアビアニ」に傍線]公子とフランチエスカ[#「フランチエスカ」に傍線]夫人との間に生れし姫君の名をばフラミニア[#「フラミニア」に傍線]といひぬ。されど搖籃の中にありて、早く神に許嫁《いひなづけ》せさせ給ひしより、人々|小尼公《アベヂツサ》とのみ稱ふることゝなりぬ。この小尼公には、むかし我手にかき抱きて、をかしき畫などかきて慰めまつりし頃より後、再び見《まみ》ゆることを得ざりき。小尼公は教育の爲めにとて、四井街《クワトロ、フオンタネ》の尼寺にあづけられ給ひしより、早や六とせとなりぬ。境内《けいだい》を出で給ふことなく、母君なるフランチエスカ[#「フランチエスカ」に傍線]の夫人ならでは往きて逢ふことを許されねば、父君すら一たびも面を合せ給ふことあらざりき。われ等は唯だ人傳《ひとづて》に姫君の今は全く人となり給ひて、その學藝をさへ人並ならず善くし給ふを聞きしのみ。
 寺の掟《おきて》に依るに、凡そ尼となるものは、授戒に先だてる數月間親々の許に還り居て、浮世の歡《よろこび》を味ひ盡し、さて生涯の暇乞して俗縁を斷つことなり。この時となりて、再び寺に入るとそが儘我家に留まるとは、その女子の意志の自由に委《ゆだ》ぬといへど、そは只だ掟の上の事のみに
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