ニよ、その色あひを吟味し、その縫際《ぬひめ》に心留むるにあらでは、少女の姿を論ずべからずと云ひ、理髮師は、否々、彼の美しき髮のいかに綰《わが》ねられたるかを見ずやと云ひ、語學の師はその會話の妙をたゝへ、舞の師はその擧止のけだかさを讚む。彼の我師と稱するものは、この工匠等に異ならず。されどわれ若し憚《はゞか》ることなくして、人々よ、我も一々の美を見ざるにあらねど、我を動かすものは彼に在らずしてその全體の美に在り、是れ我職分なりと曰《い》はゞ、人々は必ず陽《あらは》に、げに/\我等の教ふるところは汝詩人の目の視るところより低かるべしと曰ひつゝ、陰《ひそか》に我愚を笑ふなるべし。
天地の間に生物《せいぶつ》多しと雖、その最も殘忍なるものは蓋《けだ》し人なるべし。われ若し富人ならば、われ若し人の廡下《ぶか》に寄るものならずば、人々の旗色は忽ちにして變ずべきならん。人々の聰明ぶり博識ぶりて、自ら處世の才《ざえ》に長《た》けたりげに振舞ふは、皆我が食客たるをもてにあらずや。我は泣かまほしきに笑ひ、唾せんと欲して却《かへ》りて首を屈し、耳を傾けて俗士婦女の蝋を嚼《か》むが如き話説を聽かざるべからず。所謂《いはゆる》教育は果して我に何物をか與へし。面從|腹誹《ふくひ》、抑鬱不平、自暴自棄などの惡癖|陋習《ろうしふ》の、我心の底に萌《きざ》しゝより外、又何の效果も無かりしなり。
十の指は我があらゆる暗黒面を指し、却りて我をして我に一光明面なしや否やを思はしめ、我をして自ら己の長を覓《もと》め、自ら己の能を衒《てら》はしめたり。而して彼指は又この影を顧みて自ら喜ぶ情を指して、更に一の暗黒面を得たりとせり。
人々はわが我見《がけん》の強くして固きを難ぜり。政治家のわが我見を責むるは、われ心を政況に委《ゆだ》ねざればなり、馬を愛《め》づる貴公子のわが我見を責むるは、われ馬を品し馬に乘りて居諸《きよしよ》を送ること能はざればなり、曾て又一少年の審美學の書《ふみ》に耽《ふけ》るものありしが、其人は我にいかに思惟し、いかに吟詠し、いかに批評すべきを教へ、一朝わがその授くる所の規矩に遵《したが》はざるを見るに及びては、忽《たちまち》又わが我執《がしふ》を責めたり。こはわが我執あるにはあらで、人々の我執あるにはあらざるか。そを翻《ひるがへ》りてわれ我執ありといふは、わが人の恩蔭を被りたる貧家の孤《みなしご》たるを以てにあらずや。
名よりして言はんか、我は貴族にあらず。されど心よりして觀んか、我|豈《あに》賤人ならんや。されば我は人に侮蔑せらるゝごとに、必ず深き苦痛を忍べり。いかなれば我は赤心を棒げて人々に依頼せしに、人々は我をして鹽の柱と化すること彼ロオト[#「ロオト」に傍線](亞伯拉罕《アブラハム》の甥《をひ》)が妻の如くならしめしぞ。是に於いてや、悖戻《ぼつれい》の情は一時我心上に起り來りて、自信自重の意識は緊縛をわが恆《つね》の心に加へ、此緊縛の中よりして、増上慢の鬼は昂然として頭を擡《もた》げ、我をして平生我に師たる俗客を脚底に見下さしめ、我耳に附きて語りて曰はく。汝の名は千載の後に傳へらるべし。彼の汝に師たるものゝ名は、これに反して全く忘らるべし。縱令《たとひ》忘られざらんも、その偶※[#二の字点、1−2−22]《たま/\》存ずるは汝が囹圄《れいご》の桎梏《しつこく》として存じ、汝が性命の杯中に落ちたる毒藥として存ずるならんといふ。われはタツソオ[#「タツソオ」に傍線]の上をおもへり。矜持《きようぢ》せるレオノオレ[#「レオノオレ」に傍線]よ。驕傲《けうがう》なるフエルララ[#「フエルララ」に二重傍線]の朝廷よ。その名は今タツソオ[#「タツソオ」に傍線]によりて僅に存ずるにあらずや。當時の王者の宮殿は今瓦石の一|堆《たい》のみ、その詩人を拘禁せし牢舍《ひとや》は今巡拜者の靈場たりなどゝおもへり。此の如き心の卑むべきは、われ自ら知る。されど所謂教育は我をして此の如き心を生ぜしめざること能はず。われ若し彼教育を受けて、此心をだに生ぜざりせば、われは性命を保ちて今に到るに由なかりしなり。わが潔白なる心、敬愛の情は、一言の奬勵、一顧の恩惠を以て雨露となしゝに、人々は却りて毒水を灌《そゝ》ぎてこれを槁枯《かうこ》せしめしなり。
今の我は最早昔の如き無邪氣の人ならず。さるを人々は猶無邪氣なるアントニオ[#「アントニオ」に傍線]と呼べり。今の我は斷えず書《ふみ》を讀み、自然と人間とを觀察し、又自ら我心を顧みて己の長短利病を審《つまびらか》にせんとせり。さるを人々は始終物學びせぬアントニオ[#「アントニオ」に傍線]と呼べり。この教育は六年の間續きたり、否、七年ともいふことを得べし。されど六とせ目の年の末には、早く多少の風波の我生涯の海の面に噪《さわ》ぎ立つ
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