Bされどわれは此一家の復た我に厚きを喜ぶと共に、人の我を恕するは我を輕んずる所以《ゆゑん》なるを思ふことを禁じ得ざりき。
教育
ボルゲエゼ[#「ボルゲエゼ」に傍線]家の宮殿は今わが居處となりぬ。人々の我をもてなし給ふさまは、昔に比ぶれば優しく又親しかりき。時として我を輕んずるやうなる詞、我を侮《あなど》るやうなる行《おこなひ》なきにしもあらねど、そはわが爲め好かれとて言ひもし行ひもし給ふなれば、憎むべきにはあらざるなるべし。
夏は人々暑さを避けんとて餘所《よそ》に遷《うつ》り給へば、われ獨り留まりて大廈の中にあり。涼しき風吹き初《そ》むれば人々歸り給ふ。かく我は漸く又此境遇に安んずることゝなりぬ。
我は最早カムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]の野の童《わらは》にはあらず。最早當時の如く人の詞といふ詞を信ずること、宗教に志篤き人の信條を奉ずると同じきこと能はず。我は最早「ジエスヰタ」派學校の生徒にはあらず。最早教育の名をもてするあらゆる束縛を甘んじ受くること能はず。さるを憾《うら》むらくは人々、猶我を視ることカムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]の野の童、「ジエスヰタ」派學校の生徒たる日と異ならざりき。此間に處して、我は六とせを經たり。今よりしてその生活を顧みれば、波瀾層疊たる海面を望むが如し。好くも我はその波濤の底に埋沒し畢《をは》らざりしことよ。讀者よ、わが物語を聞くことを辭《いな》まざる讀者よ。願はくは一氣に此一段の文字を讀み去れ。われは唯だ省筆を用ゐて、その大概を敍して已みなんとす。
この六年《むとせ》の歴史はわが受けし精神上教育の歴史なり。この教育は人の師たるを好むものゝことさらに設けたる所にして、不便《ふびん》なる我はこれを身に受けざること能はざりしなり。人々は我を善人とし、我に棄て難き機根ありとして、競ひて自ら教育の任を負へり。恩人はその恩を以て我に臨みて我師たり。恩人ならぬ人はわが人好《ひとよ》きに乘じて僭《せん》して我師となれり。我は忍びて無量の苦を受けたり。そは教育といふを以ての故なり。
主公はわが學の膚淺《ふせん》なるを責め給へり。我はいかに自ら勵まんも、わが一書を讀みたる後、何物か我胸中に殘れると問はゞ、そはたゞ其卷册の裡より我心に適《かな》へるものを抽《ぬ》き出し得たりといふのみにて、譬へば蜂の百花の上に翼を休めて、唯だ一味の蜜を探らんが如くなるべし。こは老侯の喜び給ふところにあらざりしなり。家の常の賓客《まらうど》、その他われを愛すといふ人々には、おの/\その理想ありて、われを測るにその合理想《がふりさう》の尺度をもてす。人々いかでかわが成績に甘んずることを得ん。數學者はアントニオ[#「アントニオ」に傍線]あまりに空想に富みて、冷靜の資なしと云ひ、儒者はアントニオ[#「アントニオ」に傍線]の拉甸《ラテン》語に精《くは》しからざることよと云ひ、政治家は稠人《ちうじん》の前にありて、ことさらに我に問ふにわが知らざるところの政治上の事をもてし、われを苦めて自ら得たりとし、遊戲をもて性命とせる貴公子は、また我と馬相を論じて、わが馬を愛することの己れの身を愛するごとくならざるを怪み、貴族にして毒舌ある一婦人の、まことは人に超えたる智あるにあらずして、漫《みだ》りに批評に長ぜりと稱せられたるは、また我詩稿を刪潤《さんじゆん》せんと欲し、我に一枚づゝ寫して呈せんことを求めたり。その外、ハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]の如く、むかし有望の少年たりしわが、今才盡き想涸れたるを歎ずるものあり、舞踏を善くする某《なにがし》の如く、わが舞場に出でゝ姿勢の美を闕《か》くを憾《うら》むものあり、文法に精しき某の如く、わが往々|讀《とう》に代ふるに句を以てするを難ずるものあり。就中《なかんづく》フランチエスカ[#「フランチエスカ」に傍線]の君は、もろ人の我を襃むるに過ぎて、わが慢心のこれがために長ずべきを惜むとて、毎《つね》に峻嚴と威儀とをもて我に臨まんとし給へり。おほよそ此等の毒は滴々《てき/\》我心上に落ち來りて、われは我心のこれが爲めに硬結すべきか、さらずば又これが爲めにその血を瀝《したゝ》らし盡すべきをおもひたりき。
我心は一物に逢ふごとに、その高尚と美妙との方面よりして強く刺戟せられ深く悦懌《えつえき》す。われは獨り閑室に坐するとき、首《かうべ》を囘《めぐら》して彼の我師と稱するものを憶ふに、一種の奇異なる感の我を襲ひ來るに會ひぬ。世界は譬へば美しき少女《をとめ》の如し。その心その姿その粧《よそほひ》は、わが目を注ぎ心を傾くるところなり。さるを靴工は、彼の穿《は》ける靴を見よ、その身上第一の飾はこれぞと云ひ、縫匠《ほうしやう》は、否、彼の着たる衣を見よ、その裁ちざまの好きこ
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