チかれぬ。イトリ[#「イトリ」に二重傍線]の狹隘を過ぐる時、われはフエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]が上を憶ひ起しつ。旅劵を閲《けみ》する國境には、けふも洞穴の中に山羊の群をなせるあり。されどフエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]が筆に上りし當時の牧童は見えざりき。
 一行はテルラチナ[#「テルラチナ」に二重傍線]に宿りぬ。夜明くれば天氣晴朗なりき。あはれ、美しき海原よ。汝は我を懷抱し我をゆり動かして、我にめでたき夢を見させ、我をかう/″\しきララ[#「ララ」に傍線]に逢はせき。今はわれ汝に別れんとぞすなる。水の天に接する處には、猶エズヰオの山の雄々しき姿見えて、立昇る烟の色は淡き藍色を成し、そのさま清明にして而《しか》も幽微に、譬へば霞を以て顏料となし、かゞやく空の面《おも》に畫ける如し。われは大息《といき》して呼べり。さらば/\、いで我は羅馬に入らん。我墓穴は我を待つこと久し。
 われは曾て怪しき媼《おうな》フルヰア[#「フルヰア」に傍線]とさまよひありきし山を望みき。われはジエンツアノ[#「ジエンツアノ」に二重傍線]市を過ぎて、我母の車に觸れてみまかり給ひし廣こうぢを見き。路の傍なる乞兒《かたゐ》は我衣服の卑しからぬを見て、われを殿樣《エツチエレンツア》と呼べり。むかし母に手を拉《ひ》かれて祭を見し貧家の子幸《さち》ありといはんか、今ボルゲエゼ[#「ボルゲエゼ」に傍線]家の賓客となりて歸れる紳士幸ありといはんか、そは輒《たやす》く答へ難き問なるべし。
 一行はアルバノ[#「アルバノ」に二重傍線]の山を踰《こ》えたり。カムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]の曠野《ひろの》は我前に横《よこたは》れり。道の傍なる、蔦蘿《つたかづら》深く鎖《とざ》せるアスカニウス[#「アスカニウス」に傍線]の墳《つか》は先づ我眼に映ぜり。古墓あり、水道の殘礎あり、而して聖彼得《サン、ピエトロ》寺の穹窿天に聳えたる羅馬の市は、既に目睫《もくせふ》の中に在り。(アスカニウス[#「アスカニウス」に傍線]は昔アルバ、ロンガ[#「アルバ、ロンガ」に二重傍線]の基を立てし人なり。是れ拉甸《ラテン》人の始めて市を成せる處にして、後の羅馬市はこれより生ぜりといふ。)
 車の聖《サン》ジヨワンニイ[#「ジヨワンニイ」に傍線]の門(ポルタ、サン、ジヨワンニイ)より入るとき、公子は我を顧みて、いかに樂しき景色にはあらずやと宣給へり。「ラテラノ」の寺、丈長き尖柱《オベリスコス》、「コリゼエオ」の大廈《たいか》の址《あと》、トラヤヌス[#「トラヤヌス」に傍線]の廣こうぢ、いづれか我舊夢を喚び返す媒《なかだち》ならざる。
 羅馬は拿破里の熱鬧《ねつたう》に似ず。コルソオ[#「コルソオ」に二重傍線]の大路は長しと雖、繁華なるトレド[#「トレド」に二重傍線]の街と異なり。車の窓より道行く人を覗ふに、むかし見し人も少からず。老いたる教師ハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]のボルゲエゼ[#「ボルゲエゼ」に傍線]家の車の章《しるし》に心づきて、蹣跚《まんさん》たる歩を住《とゞ》め我等を禮《ゐや》したるは、おもはずなる心地せらる。コンドツチイ[#「コンドツチイ」に二重傍線]街(ヰヤ、コンドツチイ)の角を過ぐれば、むかしながらのペツポ[#「ペツポ」に傍線]が手に屐《あしだ》まがひの木片《きぎれ》を裝ひて、道の傍に坐せるを見る。
 フランチエスカ[#「フランチエスカ」に傍線]の君の、やう/\我家に歸り着きぬと宣給ふに答へて、まことにさなりと云ひつゝも、我は心の内に名状し難き感情の迫り來るを覺えき。我は今曾て訣絶の書を賜ひし舊恩人を拜せざるべからず。その待遇は果していかなるべきか。我はこゝに至りて、復たこれを避けんと欲することなく、却りて二馬の足掻《あがき》の猶《なほ》太《はなは》だ遲きを恨みき。譬へば死の宣告を受けたるものゝ、早く苦痛の境を過ぎて彼岸に達せんことを願ふが如くなるべし。
 車はボルゲエゼ[#「ボルゲエゼ」に傍線]の館《たち》の前に駐《と》まりぬ。僮僕《しもべ》は我を誘《いざな》ひて館の最高層に登り、相接せる二小房を指して、我行李を卸《おろ》さしめき。
 少選《しばし》ありて食卓に呼ばれぬ。われは舊恩人たる老公の前に出でゝ、身を僂《かゞ》めて拜せしに、アントニオ[#「アントニオ」に傍線]が席をば我とフランチエスカ[#「フランチエスカ」に傍線]との間に設けよと宣給ふ。是れ我が久し振にて耳にせし最初の一語なりき。
 會話の調子は輕快なりき。われは物語の昔日の過《あやまち》に及ばんことを慮《おもんぱか》りしに、この御館《みたち》を遠ざかりたりしことをだに言ひ出づる人なく、老公は優しさ舊に倍して我を※[#「疑のへん+欠」、第3水準1−86−31]待《もてな》し給ひぬ
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