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よしなき御疑念など起し給はで、御出下されかしと、ひたすら御待申上候。御別申上候節は、實に思ひ掛けぬ事にて、胸騷ぎ魂消えて、申上ぐべき詞をもえ辨《わきま》へ侍らざりしかど、今は御許にても、あわたゞしかりし當時の事を思ひ棄て給ひつらんと存じ候。御許にて思ひ違《たが》へ給ひしにはあらずやと思はるゝ節も候へども、そはすべて御目にかゝりたる上にて申解くべく候。只だ一刻も早く御目にかゝり度御待申上ぐるより外無御座《ほかござなく》候。かしこ。
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末には又昔の友なる女と署したり。會合の家は知らぬ巷《ちまた》に在れど、サンタ[#「サンタ」に傍線]ならではかゝる文書くべき婦人あるべうもあらず。われは今更彼婦人に逢ひて何とかすべきと思ひぬれば、御返事もやあると促《うなが》しに來し男を呼び入れて、詞短かにいひぬ。われは遽《には》かに思ひ定むる事ありて、拿破里を去らんとす。今までの厚き御惠は誓ひて忘れ侍らじ。御目に掛かりて御暇乞すべきなれど、あわたゞしき折なれば、唯だこの由御使に申すなりといひぬ。フエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]には數行の書を作りて遺し置きつ。その概略《あらまし》は今物書くべき心地もせねば、精《くはし》しき事の顛末をば、羅馬に到り着きて後にこそ告ぐべけれ、手を握らで別れ去ることの心苦しさを察せよといふ程の意《こゝろ》なりき。
暇乞にとては、何處へも往かざりき。街上にてベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]の面を見んことの影護《うしろめた》く、又此地に來てより交を結びし人には、相見んことの願はしくもあらねば、われは旅寓の一室にたれこめて此日を暮さんとおもひ居たり。さるを公子の車を誂へ置きたれば、共に醫師の家訪はずやと宣給ふがことわりなれば、隨ひて行きぬ。小く心安げなる家にて、年|長《た》けたる姉の家政を掌《つかさど》れるあり。質直なる性質眉目の間に現はれて、むかしカムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]の野邊にありける時、鞠育《きくいく》の恩を受けしドメニカ[#「ドメニカ」に傍線]に似たるところあり。されど此は教育ある人なれば、起居振舞のみやびやかなる、いろ/\なる藝能ある抔《など》、日を同じうして語るべくもあらざるなるべし。
翌朝われは先づヱズヰオ[#「ヱズヰオ」に二重傍線]の山を仰ぎ見て別を告げたり。嶺《いたゞき》は深く烟霧の裏《うち》に隱れて、われに送別の意を表せんともせざる如し。是日《このひ》海原はいと靜にして、又我をして洞窟と瞽女《ごぜ》との夢を想はしむ。嗚呼《あゝ》、此拿破里の市も、今よりは同じ夢中の物となり了《をは》るならん。
房奴《カメリエリ》はけふの拿破里日報(ヂアリオ、ヂ ナポリ)を持ち來りぬ。披《ひら》きて見れば、我《わが》假名《けみやう》あり。さきの日の初舞臺の批評なりき。いかなる事を書けるにかと、心|忙《せは》しく讀みもて行くに、先づ空想の贍《ゆたか》にして、章句の美しかりしを稱《たゝ》へ、恐らくは是れパンジエツチイ[#「パンジエツチイ」に傍線]の流を酌《く》めるものにて、摸倣の稍※[#二の字点、1−2−22]甚しきを嫌ふと斷ぜり。パンジエツチイ[#「パンジエツチイ」に傍線]といふ人はわれ夢にだに見しことあらず。われは唯だ我天賦の情に本《もと》づきて歌ひしなり。想ふに彼批評家といふものは、おのれ常に摸擬の筆を用ゐるより、人の藝術も亦|然《しか》ならんと思へるにやあらん。末の方には例に依りて、奬勵の語を添へたり。いはく。此人終に名を成すべき望なきにあらず、今の見る所を以てするも、猶非凡なる材能たることを失はざるべし、空想感情靈應の諸性具備したりと見ゆればなりとあり。此評は惡しき方にはあらねど、當日の公衆の喝采に比ぶるときは、その冷かなること著《いちじる》しとおもはる。われは此新聞紙を疊みて行李の中に藏《をさ》めたり。そは他年わが拿破里の遭遇の悉く夢ならぬを證せん料《しろ》にもとてなり。嗚呼、われ拿破里を見たり、拿破里の市を彷徨《はうくわう》せり。わが得しところそも幾何《いくばく》ぞ、わが失ひしところはたそも幾何ぞ。知らず、フルヰア[#「フルヰア」に傍線]の預言は既に實現し盡せりや否や。
われ等は拿破里を出立《いでた》ちたり。葡萄栽ゑたる丘陵は見る/\烟雲の間に沒せり。一行は羅馬に向ひて行くこと四日なりき。わが行くところの道は、二月の前にフエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]、サンタ[#「サンタ」に傍線]の二人と與《とも》に行きし道なりき。モラ[#「モラ」に二重傍線]の旅亭に來て見れば、柑子の林は今花の眞盛なり。われは再び我《わが》祕言《ひめごと》をサンタ[#「サンタ」に傍線]に偸《ぬす》み聽かれし木蔭に立寄りたり。人の離合聚散の測り難きこと、また今更に
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