體V使なりき。
年經て我夢の夢に非ざることは明かになりぬ。彼洞窟は今カプリ[#「カプリ」に二重傍線]島の第一勝、否伊太利國の第一勝たる琅※[#「王+干」、第3水準1−87−83]洞《らうかんどう》(グロツタ、アツウラ)にして、舟中の少女も亦實にかのペスツム[#「ペスツム」に二重傍線]の瞽女《ごぜ》ララ[#「ララ」に傍線]なりしなり。
歸途
公子夫婦は我を率《ゐ》て拿破里《ナポリ》に歸らんために、猶カプリ[#「カプリ」に二重傍線]に留まること二日なりき。二人の我を待つ言動は、始の程こそ屡※[#二の字点、1−2−22]我感情を傷《そこな》ふこともありつれ、遭難の後病弱の身となりては、親族にも稀なるべき人々の看護の難有《ありがた》さ身にしみて、羅馬へ伴ひ行かんと云はるゝが嬉しとおもはるゝやうになりぬ。そが上かの洞窟の内に遭遇せし怪異と、萬死を出でゝ一生を獲たる幸とは、いたくわが興奮したる腦髓を刺戟して、我をして無形の威力の人の運命を左右することの復た疑ふべからざるを思はしめぬれば、我は公子夫婦の羅馬へ往けと勸め給ふを聞きても、又直ちにその聲を以て運命の聲となさんとしたり。わが健康の漸く故《もと》に復《かへ》らんとする頃、公子夫婦は又我床頭にありて、何くれとなく語り慰め給ひき。夫人。アントニオ[#「アントニオ」に傍線]よ。おん身の往方《ゆくへ》まだ知れざりし程は、我等は屡※[#二の字点、1−2−22]おん身の爲めに泣きぬ。おん身の不思議に性命を全うせしは、聖母の御惠なりしならん。今はおん身情|強《こは》きも、よも再び拿破里に住みて、ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]と面をあはせんとは云はぬならん。公子。そは勿論なるべし。われ等は只だ羅馬に伴ひ歸りて、曾て過《あやまち》ありしアントニオ[#「アントニオ」に傍線]は地中海の底の藻屑となりぬ、今こゝに來たるはその昔幼く可哀《かは》ゆかりしアントニオ[#「アントニオ」に傍線]なりと云はん。夫人。さるにても便《びん》なきはジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]なり。才も人に優れ情《なさけ》も深かりしものを、いかなれば神は末猶遠き此人の命を助けんとはし給はざりけん。惜みても餘あることならずやなど宣給《のたま》へり。
醫師《くすし》は屡※[#二の字点、1−2−22]病牀をおとづれて、數時間を我室に送れり。この人は拿破里に住みて、いまは用事ありて此カプリ[#「カプリ」に二重傍線]に來居《きゐ》たるなりといふ。第三日に至りて、醫師我を診して健康の全く故《もと》に復《かへ》りたるを告げ、己れも我等の一行と共に歸途に就きぬ。醫師の我を健全なりといふは、形體上より言へるにて、若し精神上より言はゞ、われは自ら我心の健全ならざるを覺えき。わが少壯の心は、かの含羞草《ねむりぐさ》といふものゝ葉と同じく萎《しぼ》み卷きて、曩《さき》に一たび死の境界に臨みてよりこのかた、死の天使の接吻の痕は、猶明かに我額の上に存せり。公子夫婦の我と醫師とを引き連れて舟に上り給ふとき、我は澄み渡れる海水を見下《みおろ》して、忽ち前日の事を憶ひ起し、激しく心を動したり。今日影のうらゝかに此積水の緑を照すを見るにつけても、我は永く此底に眠るべき身の、恙《つゝが》なくて又此天日の光に浴するを思ひ、涙の頬に流るゝを禁ずること能はざりき。人々は皆優しく我を慰めたり。フランチエスカ[#「フランチエスカ」に傍線]の君は我才を稱へ、我を呼びて詩人となし、醫師に我が拿破里の劇場に上りて、即興詩を歌ひしことを語り給ひしに、醫師驚きたる面持《おももち》して、さてはかの謳者《うたひて》は此人なりしか、公衆の稱歎は尋常《よのつね》ならざりき、重ねて技《わざ》を演じ給はゞ、世に名高き人ともなり給はんものをなどいへり。風の餘り好かりければ、初めソレントオ[#「ソレントオ」に二重傍線]より陸《くが》に上るべかりし航路を改め、直ちに拿破里の入江を指して進むことゝなりぬ。
われは拿破里の旅寓《はたご》に入りて、三通の書信に接したり。その一は友人フエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]が手書なり。フエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]はきのふイスキア[#「イスキア」に二重傍線]の島に遊び、三日の後ならでは還らずとの事なりき。明日《あす》の午頃には人々こゝを立たんと宣給《のたま》へば、われはこの唯だ一人なる友にだに、暇乞《いとまごひ》することを得ざらんとす。その二はわが宿を出でし次の日に來しものなる由、房奴《カメリエリ》われに語りぬ。これを讀むに唯だ二三行の文あり。心誠なるものゝおん身の爲め好かれとおもへるありて、今宵おん身の來まさんことを願ふとのみ書きて、末に昔の友なる女と署し、會合の家を指し示せり。其三はこれと同じ手して書けるものなり。その文左の如くなりき
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