を擡《もた》げて、翁が手快《てばや》くララ[#「ララ」に傍線]を彼帆船に抱き上げ、わが摘みし花束をも移し載せて、自らこれに乘りうつり、小舟を艫《とも》に結び付けて、帆を揚げて去るを見たり。されど我は身を起すこと能はず、又聲を出すこと能はずして、徒らに身を悶え手を振るのみ。我は死の我心《わがむね》に迫りて、心の裂けんと欲するを覺えたり。

   蘇生

 かくては性命の虞《おそれ》はあらじとは、始て我耳に入りし詞なりき。われは眼を開いてフアビアニ[#「フアビアニ」に傍線]公子と夫人フランチエスカ[#「フランチエスカ」に傍線]とを見たり。されど彼語を出しゝは、我手を握りて、眞面目なる思慮ありげなる目を我面に注ぎたる未知の男なりき。我は廣闊にして敞明《しやうめい》なる一室に臥せり。時は白晝《まひる》なりき。われは身の何《いづく》の處にあるを知らずして、只だ熱の脈絡の内に發《おこ》りたるを覺えき。わがいかにして救はれ、いかにしてこゝに來しを審《つまびらか》にすることを得しは、時を經ての後なりき。
 きのふジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]とわれとの歸り來ざりしとき、人々はいたく心を苦め給ひぬ。我等を載せて出でし舟人を尋ぬるに、こも行方《ゆくへ》知れずとの事なりき。さて島の南岸に沿ひて、龍卷ありしを聞き給ひしより、人々は早や我等の生きて還らざるべきを思ひ給ひぬ。搜索の爲めに出し遣られし二艘の舟は、一はこなたより漕ぎ往き、一はかなたより漕ぎ戻りて、末遂に一つところに落ち合ふやうに掟《おき》てられしに、その舟皆歸り來て、舟も人もその踪跡《そうせき》を見ずといふ。フランチエスカ[#「フランチエスカ」に傍線]の君は我がために涙を墮し給ひ、又ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]と舟人との上をも惜み給ひぬと聞えぬ。
 その時公子の宣給《のたま》ふやう。かくて思ひ棄てんは、猶そのてだてを盡したりといふべからず。若し舟中の人にして、或は浪に打ち揚げられ、或は自ら泅《およ》ぎ着きて、巖のはざまなどにあらんには、人に知られで飢渇の苦艱《くげん》を受けもやせん。いでわれ親《みづか》ら往いて求めんとて、朝まだきに力強き漕手《こぎて》四人を倩《やと》ひ、湊《みなと》を舟出《ふなで》して、こゝかしこの洞窟より巖のはざまゝで、名殘《なごり》なく尋ね給ひぬ。されど彼魔窟といふところには、舟人|辭《いな》みて行かじといふを、公子強ひて説き勸め、草木生ひたりと見ゆる岸邊をさして漕ぎ近づかせしに、程近くなるに從ひて、人の僵《たふ》れ臥したりと覺しきを認め、さてこそ我を救ひ取り給ひしなれ。われは緑なる灌木の間に横はり、我衣は濱風に吹かれて半ば乾きたりしなり。公子は舟人して我を舟に扶《たす》け載せしめ、おのれの外套もて被ひ、手の尖《さき》胸のあたりなど擦《す》り温めつゝ、早く我呼吸の未だ絶え果てぬを見給ひぬといふ。われはかくてこゝに伴はれ、醫師《くすし》の治療を受けつるなりけり。
 さればジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]と二人の舟人とは魚腹に葬《はうむ》られて、われのみ一人再び天日を見ることゝなりしなり。人々は我に當時の事を語らしめたり。われは光まばゆき洞窟の中に醒《さ》めしを姶とし、目しひたる少女を載せ來し翁に遭へるに至るまで、そのおほよそを語りしに、人々笑ひて、そは熱ある人の寒き夜風に觸れ、半醒半夢の間にありて妄想せるならんといへり。げにわれさへ事の餘りに怪しければ、夢かと疑ふ心なきにしもあらねど、また熟※[#二の字点、1−2−22]《つく/″\》思へばしかはあらじと思ひ返さざることを得ず。かへす/″\も奇《く》しく怪しきは、彼洞天の光景と舟中の人物となり。
 我物語を傍聽《かたへぎゝ》せし醫師は公子に向ひ頭を傾けて、さては君の此人を搜し得給ひしは彼魔窟の畔《ほとり》なりけるよといひぬ。公子。さなり。さりとて君は世俗のいふ魔窟に、まことに魔ありとは、よも思ひ給はじ。醫師。そは輒《たやす》く答へまつるべうもあらぬ御尋なり。自然は謎語《なぞ》の鉤鎖《くさり》にして吾人は今その幾節をか解き得たる。
 我心は次第に爽かになりぬ。抑※[#二の字点、1−2−22]《そも/\》わが見し洞窟はいかなる處なりしぞ。舟人の物語に、この石門の奧に光りかゞやくところありといひしは、わが漂《たゞよ》ひ着きし別天地を斥《さ》して言へるにはあらざるか。かの怪しき翁の舟の、狹き穴より濳《くゞ》り出しをば、われ明かに記憶せり。夢まぼろしにてはよもあらじ。さらば彼洞窟は幽魂の往來《ゆきき》するところにして、我は一たび其境に陷り、聖母《マドンナ》の惠によりて又|現世《うつしよ》に歸りしにや。われはかく思ひ惑《まど》ひつゝも、わが掌《たなぞこ》を組み合せて彼舟中の少女の上を懷ひぬ。まことに彼少女は我を救へ
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