焉tひ、ドメニカ[#「ドメニカ」に傍線]をおもひ、フランチエスカ[#「フランチエスカ」に傍線]の君をおもひ、我記憶の常に異ならざるを知りぬ。さればわが見る所のものは、必ず幻影に非ざるならん。我は故《もと》の我なり。只だ在るところの境の幽明いづれに屬するかを辨ずること能はざるのみ。
彼邊の壁に罅隙《かげき》ありて、一の大なる物を安んず。手もて摸すれば銅の鉢《はち》なり。その内には金銀貨を盛りて溢れんと欲す。われは此異境の異の愈※[#二の字点、1−2−22]益※[#二の字点、1−2−22]甚しきを覺えたり。
地平線に接する處に、我身を距ること甚だ遠からず、青光まばゆき一星ありて、その清淨なる影は波面《なみのも》に長き尾を曳けり。われは俄に彼星の、譬へば日月の蝕《しよく》の如く、其光を失ふを見たり。既にして黒き物の其前に現るゝあり。諦視《ていし》すれば、一葉の舟の、海底より湧き出でもしたらん如く、燃ゆる水の上を走り來るにぞありける。
その漸く近づくを候《うかゞ》へば、靜かに※[#「舟+虜」、第4水準2−85−82]《ろ》を搖《うごか》すものは一人の老翁なり。※[#「舟+虜」、第4水準2−85−82]の一たび水を打つごとに、波は薔薇花紅《ばらいろべに》を染め出せり。舟の舳《へさき》に一人の蹲《うづくま》れるあり。その形女子《をみなご》に似たり。舟は漸く近づけども、二人は口に一語を發せず、その動かざること石人の如く、動くものは唯だ翁が手中の※[#「舟+虜」、第4水準2−85−82]のみ。忽ち聲ありて、一の長大息の如く、我耳に入り來りぬ。その聲は曾《かつ》て一たび聞けるものゝ如くなりき。
舟は岸に近づきて圈《わ》を劃《ゑが》き、我が起《た》ちて望める邊《ほとり》に漕ぎ寄せられたり。翁が手は※[#「舟+虜」、第4水準2−85−82]を放てり。女子はこの時もろ手高くさし上げて、哀《あはれ》に悲しげなる聲を揚げ、神の母よ、我を見棄て給ふな、我は仰を畏みてこゝに來たりと云へり。われは此聲を聞きて一聲ララ[#「ララ」に傍線]と叫べり。舟中の女子は彼ペスツム[#「ペスツム」に二重傍線]古祠の畔なる瞽女《ごぜ》なりしなり。
ララ[#「ララ」に傍線]は我に對《むか》ひて起ち、聲振り絞りて、我に光明を授け給へ、我に神の造り給ひし世界の美しさを見ることを得させたまへと祈願したり。その聲音《こわね》は尋常《よのつね》ならず、譬へば泉下の人の假に形を現して物言ふが如くなりき。我即興詩は漫《みだ》りに混沌の竅《あな》を穿《うが》ちて、少女に宇宙の美を教へき。今や少女は期《ご》せずして我前に來り、我に眼を開かんことを請《こ》へり。われは少女の聲の我心魂に徹するを覺えて、口一語を出すこと能はず、只だ手を少女の方にさし伸べたるのみ。少女は再び身を起して、我に光明を授け給へと唱へかけしが、張り詰めし氣や弛《ゆる》みけん、小舟の中にはたと伏し、舷側《ふなばた》なる水ははら/\と火花を飛しつ。
翁は暫く身を屈して、少女のさまを覗《うかゞ》ひ居たるが、やをら岸に登りて、きと眼を我姿に注ぎ、空中に十字を書し、彼|大銅鉢《だいどうはつ》を抱いて舟中に移し、己も續いて乘りうつれり。われは思慮するに遑《いとま》あらずして、同じく舟に上りしに、翁は我を迎へんともせず、さればとて又我を拒《こば》まんともせず、只だ目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》りて我を視るのみ。翁は又|※[#「舟+虜」、第4水準2−85−82]《ろ》を握りて、彼青き星に向ひて漕ぎ行けり。冷なる風は舟に向ひて吹き來れり。舟は巖窟の中に進み入りて、我等の頭は巖に觸んとす。われは身をララ[#「ララ」に傍線]の上に俯したり。忽《たちまち》にして舟は杳茫《えうばう》として涯《かぎり》なき大海の上に出でぬ。頭《かうべ》を囘《めぐら》せば、斷崖千尺、斧もて削り成せる如くにして、乘る所の舟は崖下の小洞穴より濳《くゞ》り出でしなり。
新月の光は怪しきまでに清澄なりき。斷崖の一隅に龕《がん》の形をなしたる低き岸あり。灌木|疎《まばら》に生じて、深紅の花を開ける草之に雜《まじ》れり。岸邊には一隻の帆船を繋げるを見る。翁は小舟を其側に留めしに、少女は期する所ある如く、身を起して我に向へり。われはその手に觸るゝことをだに敢てせずして、心の裡《うち》に我が遇ふ所の夢に非ず幻に非ず、さればとて又|現《うつゝ》にも非ず、人も我も遊魂の陰界に相見るものなるべきを思ひぬ。少女は、いざ藥草を采りて給へと云ひて、右手《めて》を我にさし着けたり。われは鬼に役《えき》せらるるものゝ如く、岸に登りて彼|香《かぐは》しき花を摘み、束ねて少女に遞與《わた》しつ。この時われは堪へ難き疲を覺えて、そのまゝ地上に僵《たふ》れ臥したり。われは猶
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