ネりと、われは假聲《つくりごゑ》して答へたり。室内《へやぬち》の燈消ゆると共に、ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]は窓より跳り出で、いち足出して逃げて行く。其外套は風に翻《ひるがへ》れり。ニコオロ[#「ニコオロ」に傍線]よ、いかにしておん身は歸りし、これも聖母の御惠《みめぐみ》にこそといひつゝ、女は窓に走り寄りぬ。その聲は猶|慄《わなゝ》けり。われは吃《ども》りて、恕《ゆる》し給へ君と叫びぬ。あなやと呼ぶ女の聲と共に、扉ははたと鎖され、われは茫然として獨り窓外に立てり。
暫しありて、我は新婦《にひよめ》の靜かに歩ゆみ、戸を開き、戸を閉ぢ、鑰《ぢやう》を下す響を聞き、今は心安しとおもひて、そと歸途に就きぬ。われは心中に無量の喜を覺えたり。かくてこそわれは晝間の接吻に報い得つるなれ。若し彼女主人にして豫《あらかじ》め守護の功を測り知りたらんには、渠《かれ》は猶一たび接吻することをも辭せざりしなるべし。
僧堂に歸りしは恰も晩餐の時なり。人々は我が外に出でしを知らざるさまなり。食卓に就きて程經ぬるに、ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]のみ來ざりければ、フランチエスカ[#「フランチエスカ」に傍線]の君は心を勞し、公子はあまたたび人を馳せて、その歸るを候《うかゞ》はせぬ。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]はやうやくにして來りぬ。漫歩《そゞろありき》して岐《みち》に迷ひ、農夫に教へられて纔《わづか》に歸ることを得つといふ。夫人その姿を見て、げにおん身の衣《きぬ》は綻《ほころ》びたりといへば、ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]手もてその破れたる處を摘《つま》み、この端の斷《ちぎ》れたるは棘《いばら》にかゝりて跡に殘りぬ、われは直ちに心附きぬれど、奈何《いかん》ともすること能はざりき、このあたりにて斯くまで道を失はんとは、流石《さすが》に思掛けざりき、目暮の景色を弄《もてあそ》ぶ中《うち》、俄に暗くなりしを見て、近道より歸らんとおもひしが事の原《もと》なりといふ。一座は此遊の可笑《をか》しき話柄《わへい》を得たりとて打ち興じ、杯を擧げて、此|迷失兒《まよひご》の健康を祝しつ。こゝの葡萄酒はいと旨きに、人々醉を帶び、歡を竭《つく》して分れぬ。
わが寢室に入りしとき、隣室なるジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]は上衣を脱ぎ襦袢《じゆばん》一つとなりて進み來り、いとさかしげに笑ひつゝ、掌《たなぞこ》を我肩上に置きて、晝見つる美人の爲めに思を勞すること莫《なか》れといふ。われ。然《し》か宣給《のたま》へど、接吻をばわれ博し得たり。渠《かれ》。そは固《もと》よりなり。されどわれを始終|繼子《まゝこ》たりしものとな思ひそ。われ。繼子たりしや否やは知らず。唯だ繼子らしかりしは事實なり。渠。われは未だ曾て繼子たりしことなし。おん身若し能く祕密を守らば、われは敢て告ぐるところあらんとす。われ。何事まれ語り給へ。われは誓ひて餘所《よそ》に洩さゞるべし。渠。さらば包まず語るべし。われは歸るさに故意《わざ》と手帳を遺《わす》れ置きぬ。そは日暮れて再び往かん爲めなり。原《も》と女といふものは、只二人居向ひては頑《かたくな》ならぬが多し。さて我は再び往きぬ。衣の綻びたるは、墻《かき》踰《こ》え籬《まがき》を穿《うが》ちし時の過《あやまち》なり。われ。さらば女はいかなりし。渠。晝見しよりも美しかりき。美しくして頑《かたくな》ならざりき。わが預《あらかじ》め度《はか》りし如く、さし向ひとなりては何のむづかしき事もなかりき。おん身が得しは只一つの接吻なりしが、わが得しは千萬にて總て殘る隈《くま》なき爲合《しあはせ》なりき。これよりはその時のさまを樂しき夢に見んとぞおもふ。便《びん》なきアントニオ[#「アントニオ」に傍線]よと語りもあへず、ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]はおのが臥房《ふしど》に跳り入りぬ。
たつまき
僧堂を辭し去る朝《あした》、大空は灰色の紗《うすぎぬ》を被せたる如くなりき。岸には腕たしかなる漕手《こぎて》幾人か待ち受け居て、一行を舟に上らしめたり。纔《ともづな》を解きてカプリ[#「カプリ」に二重傍線]に向ふ程に、天を覆ひたりし紗は次第に斷《ちぎ》れて輕雲となり、大氣は見渡す限澄み透りて、水面には一波の起るをだに認めず。美しきアマルフイイ[#「アマルフイイ」に二重傍線]は巖のあなたに隱れぬ。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]は後《しりへ》を指ざして、かしこにてはわれ薔薇を摘み得たりと云ふ。われは頷《うなづ》きて、心の中にはこの男の強顏《きやうがん》なることよ、まことは刺《はり》に觸れて自ら傷けしものをとおもひぬ。
舟のゆくては杳茫《えうばう》たる蒼海にして、その抵《いた》る所はシチリア[#「シチリア」に二重傍線]の島なり、あらず
前へ
次へ
全169ページ中118ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
アンデルセン ハンス・クリスチャン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング