カ、上に十字架を立てたるが、燈《ともしび》をばその前に點せるなり。二人の小娘は衣《きぬ》を脱《はづ》して、白き汗衫《はだぎ》を鬆《ゆる》やかに身に纏《まと》ひ、卓の下に跪きて讚美歌を歌へり。姉なる新婦《にひよめ》も亦二人の間に坐せり。我目に映じたる此一幅の圖はラフアエロ[#「ラフアエロ」に傍線]の筆に成りたる聖母と二天使との圖と擇《えら》むことなかりき。新婦の漆黒なる瞳子《ひとみ》は上に向ひて、その波紋をなせる髮は白き肩に亂れ落ち、もろ手は曲線美しき胸の上に組み合されたり。
 われは屏息《へいそく》してこれを窺《うかゞ》ひ居て、我脈搏の亢進するを覺えたり。既にして三人は立ちあがりぬ。新婦は二兒を延《ひ》きて梯《はしご》を上り、しばらくありて靜かに傍廂《かたびさし》の戸を閉ぢ、獨り梯を下り來りぬ。さて窓に近きところを往來《ゆきき》して、物取り片付けなどし、ふと何事をか思ひ出でしものゝ如く、箪笥の前に坐して、その抽箱《ひきだし》より紅色の手帳一つ取り出だしつ。打ち返し見てほゝ笑み、開き見んとするさまなりしが、忽ち又首打ち掉《ふ》りて、手快《てばや》く抽箱《ひきだし》の中に投じたり。そのさま密事《みそかごと》して父母などに見られしに驚く小兒に似たりき。
 暫くして裏の方なる窓を敲《たゝ》く音す。新婦は驚きて頭を擡《もた》げ、耳|欹《そばだ》てゝ聞けり。敲く音は又響きて、何事をか戸外にて言ふ如くなれど、基詞は我が居るところには聞えず。新婦は忽ち聲高く呼べり。檀那《だんな》は何とて斯く遲くこゝに來給ひしぞ。何の用のおはすにか。うしろめたき事には侍らずやといふ。戸外の人は又何やらん言ひたり。新婦。さなり/\。おん詞はまことなり。おん身は手帳を忘れ置き給へり。さきに妹に持せて、麓《ふもと》なる宿屋まで遣りたれど、かしこにてはさる檀那は宿り給はずといひぬ。定めて山の上に宿り給ふならん。つとめて又持たせ遣らんとこそ思ひ侍りしなれ。手帳は現《げん》にこゝに在り。斯く云ひて、新婦《にひよめ》は抽箱《ひきだし》よりさきの手帳を取出せり。戸外の人は何やらん言へり。新婦は首を掉《ふ》りて、否々、門《かど》の口をばえひらき侍《はべ》らず、おん身のこゝに來給はんは宜《よろ》しからずと云ひ、起ちてかなたの窓を開きつ。手帳をわたさんとして差し伸べたる新婦の手をば、外より握りたりと覺しく、手帳ははたと音して窓の外に落ちたり。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]の頭は此響と共に窓の内に顯れたり。新婦は走りてこなたの窓のほとりに來つ。これより後我は明に二人の詞を辨ずることを得るに至りぬ。
 ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]。さらば君はわが感謝のために君の手に接吻するをだに許し給はぬにや。物落しし人の拾ひ主に謝するは世の習ならずや。そが上に走りてこゝに來つれば、喉乾きて堪へ難し。我に一杯《ひとつき》の酒を飮ませ給ふとも、誰かはそを惡しき事といはん。何故に君は我がそこに入らんとするを拒《こば》み給ふぞ。新婦。否、かく夜ふけておん身と物言ひ交すだに影護《うしろめた》き事なり。疾《と》くおん身の手帳を取りて歸り給へ、我は窓を鎖すべきに。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]。我はおん身の手を握らでは歸らず。おん身のけふ我に惜みて、彼馬鹿者に與へ給ひし接吻を取り返さでは歸らず。新婦は周章の間に一聲の笑を洩せり。否々。君は人の與へざる所のものを奪はんとし給ふにや。君強ひて奪はんとし給はゞ、われまた誓ひて與へざるべしといふ。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]は哀れげなる聲していふやう。我等の相見るはこれを限なるを思ひ給へ。われは再び此地に來るものにあらず。さるを君は我が手を握らんといふをだに聽き納《い》れたまはず。我胸には君に言ふべき事さはなれど、君が手を握らんの願の外は、われ敢て口に出さじ。聖母《マドンナ》は我等に何とか教へ給ふぞ。人は兄弟姉妹の如く相愛せよとこそ宣給《のたま》へ。われはおん身の兄弟なり。我黄金をおん身と分ちて、おん身の艷《あで》やかなる姿を飾る料《かて》となさんとこそ願へ。貴き飾を身に着け給はば、おん身の美しさ幾倍なるべきぞ。おん身の友だちは皆おん身を羨むべし。されど我とおんみとの中をば世に一人として知るものなからん。斯く云ひも果てず、ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]は一躍して窓より入りぬ。新婦《にひよめ》は高く聖母の名を叫べり。
 われは表の窓に走り寄りて、力を極めて其扉を打ちたり。硝子《ガラス》はから/\と鳴りたり。我は目に見えぬ威力に驅らるゝものゝ如く、走りて裏口に至り、得物《えもの》もがなと見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]す傍《かたへ》の、葡萄|架《だな》の横木引きちぎりつ。女はニコオロ[#「ニコオロ」に傍線]にやと叫べり。さなり、我
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