iロ[#「ジエンナロ」に傍線]は「ベルラ、ヂヰナ」(神々しきまで美しき子よとなり)と呼びて、手もて接吻の眞似《まね》したり。車は動き出しぬ。さては彼子の名をばララ[#「ララ」に傍線]といふとこそ覺ゆれ。われは馭者と脊中《せなか》合《あは》せに乘りたれば、古祠の柱列《ちゆうれつ》のやうやく遠ざかりゆくを見やりつゝ、耳には猶少女の叫びし聲を聞きて、限なき心の苦しさを忍び居たり。
 路傍に「チンガニイ」族の一群あり。火を溝渠《こうきよ》の中に焚きて食を調《とゝの》へたり。手に小鼓《タムブリノ》を把《と》りて、我等を要して卜筮《ぼくぜい》せんとしつれど、馭者は馬に策《むちう》ちて進み行きぬ。黒き瞳子《ひとみ》の※[#「目+炎」、104−下段−29]電《せんでん》の如き少女二人、暫し飛ぶが如くに車の迹を追ひ來りしが、ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]はこれをも美しと愛《め》で稱《たゝ》へき。されどララ[#「ララ」に傍線]の氣高《けだか》きには比ぶべうもあらざりき。
 夕にサレルノ[#「サレルノ」に二重傍線]に還りぬ。明日《あす》はアマルフイイ[#「アマルフイイ」に二重傍線]に往きて、それよりカプリ[#「カプリ」に二重傍線]に※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りて還らんとなり。公子の宣給《のたま》ふやう。拿破里に還らば、留まることは一日にして羅馬へ立たんとぞ思ふ。アントニオ[#「アントニオ」に傍線]が準備も暇取ることはあらじと宣給ふ。われは羅馬に往くことを願はねど、例の恩誼に口を塞がれて、僅かに、老公のおほん憤《いきどほり》の氣遣はれてとのみ云ひしに、そはわれ等申し解くべしと答へて我に詞を繼がしめ給はず。兎角する程に、賓客のおとづれ來て、會話はこゝに絶え、我不幸なる運命もまた定まりぬ。

   夜襲

 天氣好き日の朝舟出して、海より望めばサレルノ[#「サレルノ」に二重傍線]の美しさは又一しほなるを覺えぬ。筋骨逞ましき男六人|※[#「舟+虜」、第4水準2−85−82]《ろ》を搖《うごか》せり。畫にしても見まほしき美少年一人|柁《かぢ》の傍に蹲《うづくま》りたるが、名を問へばアルフオンソオ[#「アルフオンソオ」に傍線]と答ふ。水は緑いろにして透《す》き徹《とほ》り、硝子《ガラス》もて張りたる如し。右手《めて》なる岸の全景は、空想のセミラミス[#「セミラミス」に傍線]や築き起しゝ、唯だ是れ一大|苑囿《ゑんいう》の波上に浮べる如くなり。その水に接する處には許多《あまた》の洞窟あり。その状柱列の迫持《せりもち》を戴けるに似て、波はその門に走り入り、その内にありて戲れ遊べり。突き出でたる巖端《いははな》に城あり、城尖《じやうせん》の邊には、一帶の雲ありて徐《しづ》かに靡き過ぎんとす。我等は大島小島(マユウリイ、ミヌウリイ)を望みて、程なく彼マサニエルロ[#「マサニエルロ」に傍線]とフラヰオ・ジヨオヤ[#「フラヰオ・ジヨオヤ」に傍線]との故郷の緑いろ濃き葡萄丘の間に隱見するを認め得たり。(マサニエルロ[#「マサニエルロ」に傍線]は十七世紀の一揆《いつき》の首領なり。オベエル[#「オベエル」に傍線]が樂曲の主人公たるを以て人口に膾炙《くわいしや》す。フラヰオ・ジヨオヤ[#「フラヰオ・ジヨオヤ」に傍線]は羅針盤を創作せし人なり。)
 伊太利に名どころ多しと雖《いへども》、このアマルフイイ[#「アマルフイイ」に二重傍線]の右に出づるもの少かるべし。われは天下の人のことごとくこれを賞することを得ざるを憾《うらみ》とす。此地は廣袤《くわうばう》幾里の間、四時《しいじ》春なる芳園にして、其中央なる石級上にアマルフイイ[#「アマルフイイ」に二重傍線]の市《まち》あり。西北の風絶て至ることなければ、寒さといふものを知らず。風は必ず東南より起り、棕櫚《しゆろ》橘柚《オレンジ》の氣を帶びて、清波を渉《わた》り來るなり。
 市の層疊して高く聳ゆる状《さま》は、戲園の觀棚《さじき》の如く、その白壁の人家は皆東國の制《おきて》に從ひて平屋根なり。家ある處を踰えて上り、山腹に逼《せま》るものは葡萄丘なり。山上には※[#「土へん+楪のつくり」、第4水準2−4−94]壁《てふへき》もて繞《めぐ》らされたる古城ありて雲を※[#「てへん+(掌の手に代えて牙)」、105−中段−20]《さゝ》ふる柱をなし、その傍には一株の「ピニヨロ」樹の碧空を摩して立てるあり。
 舟の着く處は遠淺なれば、舟人は我等を負ひて岸に上らしめたり。岸には岩窟多くして、水に浸されたると否《あら》ざるとあり。小舟三つ四つ水なき處に引上げたるを、好き遊びどころにして、子供あまた集へり。身に挂《か》けたるは、大抵襦袢一枚のみにて、唯だ稀に短き中單《チヨキ》を襲ねたるが雜《まじ》れり。「ラツツアロオネ」といふ賤民
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