梛Lせしところの一歌謠の調を借りて、目前の景を歌ひ出せり。山水の美、古藝術のすぐれたる遺蹟を見るにつけ、哀なるはかの目しひたる少女《をとめ》の上にぞある。この自然の無盡藏は誰も受くべき賜《たまもの》なるに、少女はそをだに受くることを得ずといふ。是れ我一曲の主なる着想なりき。歌|※[#「門<癸」、第3水準1−93−53]《をは》る比《ころほ》ひには、われ聲涙共に下るを禁ずること能はざりき。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]は手を拍《う》ちて激賞し、公子夫妻はわが多少の情あるを認諾せり。
人々は石級を下りぬ。われはこれに從はんと欲して、ふと頭《かうべ》を囘《めぐ》らしゝに、我が倚《よ》りたりし柱の背後《うしろ》に、身を薫高き「ミユルツス」の叢《そう》に埋めて、もろ手を項《うなじ》に組み合せたる人あるを見き。而《しか》してそはかの目しひたる少女なりき。われはこの哀むべき少女の我歌を聞きしを知りぬ、我がその限なき不幸を歌ふを聞きしを知りぬ。餘りの便《びん》なさに、身を僂《かゞ》めてさし覗けば、袖は梢に觸れてさや/\と鳴り、少女はさとくも頭を擡《もた》げつ。われは思做《おもひなし》にや、その面《おも》の色のさきより蒼きを覺えたるが、少女を驚さんことのいとほしくて、身を動すことを敢てせざりき。少女は暫し耳を欹《そばだ》てゝアンジエロ[#「アンジエロ」に傍線]にやと呼びぬ。われは覺えず屏息《へいそく》せり。少女は又|俯《うつむ》きて坐せり。前《さき》にアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]の我に語りし希臘の神女も、石彫の像なれば瞻視《せんし》をば闕《か》きたるべし。今我が見るところは殆ど全くこれに契《あ》へりとやいふべき。少女は祠の礎《いしずゑ》に腰掛けて、身を無花果樹と「ミユルツス」との裡に埋め、手に一物を取りてこれを朱唇に宛て、面に微笑を湛へたり。何ぞ料《はか》らん、その物は我が與へしところの盾銀ならんとは。
我情はこれに動かされて耐へ忍ぶべからざるに至りぬ。我は再び身を僂《かゞ》めて少女の額に接吻せり。少女はあなやと叫び、物に驚きたる牝鹿の如く、瞬く隙《ひま》に馳せ去りぬ。その叫びし聲は我骨髓に徹し、その遽《あわたゞ》しく奔《はし》り去りし状《さま》は我心魂を奪ひ、われは身邊の柱楹《ちゆうえい》草木悉く旋轉《せんてん》するを覺えて、何故ともなく馳せ出し、荊莽《けいぼう》の上を踏みしだきつゝ徐《しづ》かに歩める人々を追ひ越し行きぬ。
アントニオ[#「アントニオ」に傍線]、アントニオ[#「アントニオ」に傍線]と呼ぶ公子の聲|※[#「二点しんにょう+向」、第3水準1−92−55]《はるか》なる後に聞えて、我は始て我にかへりぬ。兎をや獵《かり》せんとする、否《さら》ずば天馬空を行くとかいふ詩想の象徴をや示さんとする、と公子語を繼いで云へば、ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]、否、われ等の※[#「足+圭」、第4水準2−89−29]歩《きほ》に蹇《なや》める處を、渠《かれ》は能く飛行すと誇るなるべし、いざ我が濟勝《さいしよう》の具の渠に劣らぬを證せんとて、我傍に引き傍《そ》うて走り出しぬ。公子|後《しりへ》より、汝等は我が夫人の手を拉《ひ》きて同じ戲をなすことを要《もと》むるにやといふとき、ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]は直に歩を駐《とゞ》めたり。
酒店に歸り着きし後は、瞽女《ごぜ》は影だに見えざりき。その叫びし聲の猶絶間なく耳に聞ゆるを、怪しとおもひてつく/″\聽けば、そは我|心跳《しんてう》のかく聞做《きゝな》さるゝにぞありける。嗚呼卑むべきは我心にもあるかな。少女が胸中の苦を永言《えいげん》して、これをして深く生涯の不幸を感ぜしめ、終にはその額に接吻して驚かしたるは何事ぞや。そが上にかの接吻は我が婦女に與へたる第一の接吻なり。少女の貧しきを侮《あなど》り、その目しひたるを奇貨として、我は我が未だ嘗て敢てせざりしところのものを敢てしたり。我はベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]を輕佻《けいてう》なりとせり。而《しか》るに我が爲すところも亦此の如し。現《げ》に塵の世に生れたる人、誰か罪業なきことを得ん。いかなれば我は自ら待つことの寛《ゆる》くして、人を責むることの酷なりしぞ。われ若し再び瞽女《ごぜ》に逢はば唯だ地上に跪いてこれに謝せん。
一行は車に上りてサレルノ[#「サレルノ」に二重傍線]に歸らんとす。我は心に今一度瞽女を見んことを願ひしが、人に問ふことを憚りたり。忽ちジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]の案内者を顧みて、さるにても彼の目しひたる娘はいかにしたると問ふを聞く。案内者の一人答へてララ[#「ララ」に傍線]が事にて候ふや、海神《ポセイドン》祠《し》のほとりにやあるらん、常に彼處にあることを好めばといふ。ジエン
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