|28]せるが、額の上に垂れ掛れり。われその容《かたち》を窺ふに、羞慙《しうざん》あり、慧巧《けいかう》あり。而して別に一種言ふべからざる憂愁の色を帶びたる如くなりき。唯だその雙眸は恆に地上に注ぎて、人の面を見んことを恐るゝものゝ如し。
口々に物乞ふ中に、この少女のみは一言をだに發せざりき。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]先づ進み寄りてこれに錢を與へ、手を頤《おとがひ》の下に掛けて、此群には惜しき佳《よ》き兒ぞといふ。公子夫婦もまことに然《さ》なりといひぬ。われは少女の面の紅を潮するをみたり。少女は目を開けり。而してわれ始てその瞽《めしひ》なるを知りぬ。
われは同じくこれに物を贈らんと欲して敢てせざりき。既にして人々は乞丐《かたゐ》の群に窘《くるし》められて、酒店の軒に避けたれば、獨り立ち戻りて、盾銀《たてぎん》一つ握らせたり。盲人の敏《さと》き習として、少女はその常の錢ならぬを知りたるなるべし、顏は燃ゆる如くなりて、その健《すこや》かに美しき唇は我手背に觸れたり。われはその接吻の渾身《こんしん》の血に浸《し》み渡る心地して、遽《あわたゞ》しく我手を引き退け、酒店の軒に馳せ入りぬ。
酒店は只だ一室ありて、大いなる竈《かまど》殆どその全幅を占めたり。惜しげもなく投げ入れたる薪は盛に燃えあがりて、烟は岫《しう》を出づる雲の如く、騰《のぼ》りて黒みたる仰塵《てんじやう》に至り、更に又出口を求めて室内をさまよへり。主人の蔭多き大柳樹の下にありて、誂《あつら》へし朝餉《あさげ》の支度する間に、我等はこの烟煤《えんばい》の窟を※[#「二点しんにょう+官」、第3水準1−92−56]《のが》れ、古祠《ふるほこら》を見に往くことゝしたり。委它《いだ》たる細徑は荊榛《けいしん》の間に通ぜり。公子とジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]とは手を組み合せて、フランチエスカ[#「フランチエスカ」に傍線]はこれに腰掛けつゝ舁《か》かれ行く。
漫歩《そゞろありき》には似つかはしからぬ恐ろしき道かな、と夫人笑みつゝ云へば、案内者の一人、さのたまへど三とせの前迄は此道全く棘《いばら》に塞がれたりき、又己れが幼き頃|社《やしろ》の圓柱のめぐりに、砂土|堆《うづたか》く積もり居しを記《おぼ》え居り候ふと答ふ。案内者は皆この詞の誤らざるを證せり。一行の後には、さきの乞丐《かたゐ》の群猶隨ひ來り、皆目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》りて我等を打目守《うちまも》れり。若しわれ等にしてふとその一人の面を見ることあるときは、その手は忽ち賜《たまもの》を受くるがために伸べられ、その口は忽ち「ミゼラビレ」(憐を乞ふ語)を唱へ出すなり。瞽女《ごぜ》はいづち往きけん見えず。われはあはれなる少女の、獨りいかなる道の邊《べ》に蹲《うづくま》り居るかを思ひ遣りぬ。
我等は一の劇場と一の平和神祠との迹《あと》なる斷礎の上を登り行きぬ。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]人々を顧みて、あはれ平和と演劇との二つのもの、いかなればかく迄相親むことを得たるぞと云ふ。(劇場の徒の多く相嫉視するを諷するにや。)我等は海神《ポセイドン》祠《し》の前に立てり。世にはこれを「バジリカ」とぞいふ。近き頃、彼《かの》ポムペイ[#「ポムペイ」に二重傍線]の古市《こし》と同じく、闇黒の裡《うち》より出でゝ人の遺忘を喚び醒《さま》したるものは、此祠と穀神祠《デメエテル》となり。この祠《ほこら》の荊棘《けいきよく》に鎖《とざ》され、土石に埋められたること幾百年ぞ。幸に外國《とつくに》の一畫師ありてこゝを過ぎ、柱尖の僅に露出せるを見、その美を喜びて寫し歸りしより、世の人こゝに注目し、終に棘を刈り土を掘りて、此の宏壯なる柱堂の、新に落《らく》せるものゝ如く、耽古者流の愛《め》で翫《もてあそ》ぶところとなるには至りしなり。圓柱は黄なるトラヱルチイノ[#「トラヱルチイノ」に二重傍線]石もて作られたり。(相待上新しき地層の石にして、石灰分ある温泉の鹽類の凝りて生ずる所なり。)無花果樹《いちじゆく》はその匝《めぐり》に枝さしかはし、野生の葡萄は柱頭迄|攀《よ》ぢ上り、石質の罅隙《かげき》を生じたる處には、菫花の紫と「マチオラ」の紅とを見る。
我等は倒れたる一圓柱の趺《ふ》の上に踞したり。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]の力に頼りて、乞兒《かたゐ》の群を逐ひ拂ふことを得たりしかば、我等の心靜に四邊《あたり》の風景を玩《もてあそ》ぶには、復た何の妨《さまたげ》もあらざりき。山の姿、海の色、この古神祠の頽敗の状《さま》など、一として我情を動さゞるものなし。公子、今こそは我等がために一篇の即興詩を作《な》すことを辭せざるならめ、と問ひ掛け給へば、夫人も頷きて同じ心を表し給ふ。われは柱を背にして立ち、少
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