ソ名を成さんには遑《いとま》あらざるべし。われ。才の拙《つたな》く學の足らざるは、げにおん詞の如くなり。されどわが公衆に對せし時の成功をば、君の親しく視給はねば知らせ參らせんやうなし。只だ君の信ぜさせ給ふと覺しきジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]の君は彼夕劇場にありて、我技を賞し給ひきと申さば足りなん。夫人。おん身はジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]を證人とせんとやいふ。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]は好き紳士なれど、われは其藝術上の批評には重きを置かず。劇場に集ひし一夜の公衆に至りては、いよ/\信ずべからず。おん身若し彼夕もろひとに辱《はづかし》められんには、われ深く憾《うらみ》とすべし。その事なくして畢《をは》りしは、まことに自他の幸なり。おん身が場に上りしは唯だ一夜にして、假名《けみやう》をさへ用ゐぬれば、かゝる夢の如きよしなしごとの久しく人の記憶に殘らん憂はあらじ。三日の後には我等又拿破里に在り。そのあくる日には羅馬へ旅立すべし。羅馬に往きて、おん身の耐忍と勉勵とを見せよ。おん身に眞《まこと》の事を告ぐるは我のみぞとのたまひぬ。

   古祠、瞽女《ごぜ》

 ペスツム[#「ペスツム」に二重傍線]は宿るべき家もなく、こゝよりかしこへの道は賊などの出沒することもありと聞えければ、翌日《あくるひ》まだ暗きに一行は車に上りぬ。騎馬の憲兵は護衞として車の傍に隨へり。
 道の左右には柑子《かうじ》の林ありて、その鬱茂せる状《さま》は深山《みやま》の森にも似たるべし。セラ[#「セラ」に二重傍線]の流を渡るときは、垂柳|月桂《ラウレオ》の澄める水の面に影を倒せるを見き。荒蕪せる丘陵の間、時に穀《たなつもの》の長ぜる田圃あり。道に沿ひて蘆薈《ろくわい》霸王樹《サボテン》など野生したるが、皆ところ得がほに延び育ちたり。
 既にして一行は一古祠の前に立てり。即ち二千年前の建立《こんりふ》にして、その樣式|希臘《ギリシア》時代の粹と稱せらる。この祠、見苦しき酒店一軒、貧しげなる人家三棟、籘《とう》もて作れる小屋三つ四つ。是れ世界に名高きペスツム[#「ペスツム」に二重傍線]の村なり。いにしへは此村|薔薇《さうび》に名あり。見渡す限り紅《くれなゐ》の霞に掩《おほ》はれたりし由《よし》物に見えたれども、今は一株をだに留めず。身邊|渾《すべ》て是れ緑にして、其色遙に山嶽に連《つらな》れり。平地には菫花《すみれ》多く、薊《あざみ》その外の雜草の間に咲きひろごりたり。自然の力|餘《あまり》ありて人間の工《たくみ》を加へざる處なれば、草といふ草、木といふ木、おのがじし生ひ榮ゆるが中に、蘆薈、無花果《いちじゆく》、色紅なる「ピユレトルム、インヂクム」などの枝葉《えだは》さしかはしたる、殊に目ざましくぞ覺えられし。
 シチリア[#「シチリア」に二重傍線]の自然、その豐饒《ほうねう》の一面と荒蕪の一面とはこゝにあり。シチリア[#「シチリア」に二重傍線]の希臘古祠はこゝにあり。而してシチリア[#「シチリア」に二重傍線]の貧窶《ひんく》もまたこゝにあり。一行のめぐりには一群の乞丐《かたゐ》來り集ひたり。その状《さま》南海諸島の蕃人にも似たるべし。男子は長き羊の皮を、毛を表にして身に纏へり。暗褐色なる雙脚には靴を穿かず、剪《き》らざる髮は黒き面の邊に翻《ひるがへ》り垂れたり。妬《ねた》ましき迄に直《すぐ》に美しく生ひ立ちたる娘たちのこれに隨へるを見るに、そのさま半ば赤はだかなりといふべし。膝の上まで截《き》り開きたる短衣は裂け綻《ほころ》び、鬆《ゆる》く肩に纏へる外套めきたる褐色《かちいろ》の布は垢つきよごれ、長き黒髮をば項《うなじ》に束ね、美しき目よりは恐ろしき光を放てり。
 此群に十二歳を踰《こ》えじと見ゆる、すぐれて麗《うるは》しき娘あり。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]となるべき姿にもあらず、さればとて又サンタ[#「サンタ」に傍線]となるべき貌にもあらず。前にアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が物語に聞きつる、メヂチ[#「メヂチ」に傍線]家の愛憐[#「愛憐」は底本では「受憐」]神女の像は、かゝる面影あるにはあらずやと思はる。實に此|少女《をとめ》の清き容《かたち》は、人をして囘抱せんと欲せしむるものにあらで、却りて膜拜《もはい》せんと欲せしむるものなり。
 この少女は少し群を離れて立てり。褐《かち》色なる方巾《はうきん》偏肩《へんけん》より垂れたるが、巾《きれ》を纏《まと》はざる方《かた》の胸と臂《ひぢ》とは悉く現はれたり。雙脚には何物をも着けざりき。かくはかなき身と生れても、流石《さすが》に粧《よそほ》ひ飾る心をば持ちたるにや、髮平かに結ひ上げて、一束の菫花《すみれ》を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13
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