ヘ心の中に、復た羅馬には往かじと誓ひながら、詞に出して爭はんとはせざりき。
公子は更に語を繼ぎてさま/″\の事をいひ出で、人々のこれに答へなどするひまに一行は早くサレルノ[#「サレルノ」に二重傍線]に到りぬ。我等は先づ一寺院に入りたり。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]進み出でゝいふやう。こゝにてはわれ案内者たることを得べし。これはサレルノ[#「サレルノ」に二重傍線]にてみまかり給ひし法皇グレゴリヨ[#「グレゴリヨ」に傍線]七世(獨帝と爭ひて位を逐《お》はれ、千八十五年此に終りぬ)の遺骨を收めし龕《がん》なり。その大理石像はかしこなる贄卓《したく》の上に立てり。さてこの石棺は歴山《アレキサンドル》大帝の遺骸を藏《をさ》むといふ。公子。何とかいふ、歴山大帝の躯《むくろ》こゝにありとや。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]、我が聞きしは然《しか》なりき、さにはあらずや、と寺僮《じどう》を顧みれば、まことに仰の如しと答ふ。われつら/\棺を見て、否、そは誤りなるべし、歴山大帝の躯こゝに在りといはんは、歴史を蔑《ないがしろ》にするに近し、この浮彫の圖樣は大帝凱旋の行列なれば、かゝる誤を傳へしにや、見給へ、かしこなる寺門に近き處にもこれに似たる石棺ありて、その圖様は酒神《バツコス》の行列なり、彼棺は素《も》とペスツム[#「ペスツム」に二重傍線]に在りしを、こゝに移してサレルノ[#「サレルノ」に二重傍線]の一貴人の永眠の處となし、その石像をば傍に立てたり、此類《このたぐひ》の棺槨《くわんくわく》いと多し、大帝の事を圖したりとて其屍を藏《をさ》むとは定め難しといふ。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]は唯だ冷かに、現《げ》にさることあらんも計られずとのみ答へしに、フランチエスカ[#「フランチエスカ」に傍線]の君我耳に付きて、自ら怜悧《さかし》がりて人を屈するは惡しき習《ならひ》ぞと宣《のたま》ふ。我は頭を低《た》れて人々の後《しりへ》に退きぬ。
晩鐘の鳴る頃、公子とジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]とは散歩にとて出で、我は夫人に侍して客舍の軒に坐し居たり。海づらは乳《ち》の如き白色に見え、熔巖石を敷きたる街路より薔薇紅《ばらいろ》にかゞやける地平線のあたりまで、いと廣やかに晴れ渡り、波打際は藍色にきらめけり。かゝる色彩の配合は羅馬の無きところなり。われ、めでたき彩繪《いろゑ》には候はずやと云へば、夫人、見よ、雲は今「フエリチツシイマ、ノツテ」(幸ある夜を祈る)を言ふ時ぞ、と山嶽の方を指ざし給ふ。橄欖《オリワ》の林に隱顯せる富人の別業《べつげふ》の邊よりは※[#「二点しんにょう+向」、第3水準1−92−55]《はるか》に高く、二塔の巓を摩する古城よりは又※[#「二点しんにょう+向」、第3水準1−92−55]に低く、一叢《ひとむら》の雲は山腹に棚引きたり。われ。彼雲の中に棲《す》みて、大海の潮《しほ》の漲落《みちひ》を觀ばや。夫人。さなり。かしこに住みて即興詩を吟ぜよ。唯だ聽くものなきが恨なるべし。われ。のたまふ如く、其恨は思ひ棄て難し。詩人の喝采を受くるは草木の日光を受くると同じ。囹圄《ひとや》のタツソオ[#「タツソオ」に傍線]が身を害《そこな》ひしは、獨り戀路の關を据ゑられしが爲めのみにあらず。その詩の爲めに知音《ちいん》を得ざるを恨みしが爲めなり。夫人。われは今おん身が上を語れり。タツソオ[#「タツソオ」に傍線]が事を言はず。われ。タツソオ[#「タツソオ」に傍線]は詩人なり。されば好き例《ためし》と思ひて引き出でしまでに候ふ。夫人。アントニオ[#「アントニオ」に傍線]よ、さてはおん身は自ら詩人なりと許す心あるにやあらん。我上を語らんときは、不朽の業《わざ》ある人の名をば呼ばぬぞ好き。おん身は物に感動し易き情ありて、又能くさる情を解するより、直ちに己れの詩人たるを信ぜんとするならん。そは世間幾多の人の具ふる所にして、又能くする所なり。これに惑ひて徒《いたづ》らに思ひ上がりなどせば、生涯の不幸となるべきものぞといふ。われは面の火の如くなれるを覺えて、仰せはさる事ながら、わが自ら深く信ずるところをば包まで申すを聞き給へ、「サン、カルロ」座なる數千の客は我に何の由縁《ゆかり》もなきに、口を齊《ひとし》うして喝采したり、われは惠深き君の我喜を分ち給はんことを忖《はか》りしにと答へたり。夫人。おん身の友は多かるべし。されどまことにおん身の喜を分たんもの我が如きは少からん。おん身の情に厚きこと、心ざまの卑からぬことは、我等よく知りたり。さればこそをぢ君の御腹立をも申解《まうしと》かばやとさへ思ふなれ。おん身には好き稟賦《ひんぷ》あり。學ばゞ一廉《ひとかど》の人物ともなるらん。されど今の儘にては、その才僅かに坐客の耳を悦ばしむるに足りて、未だ世に立
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