nの湖畔に遊びし時と近ごろ拿破里《ナポリ》に來し時とのみ。こたび尋ねし勝概こそは、始めて我心を滿ち足らしめ、我をして平生夢寐《むび》する所の仙郷に居る念《おもひ》をなさしめしものなれ。凡そ外國《とつくに》の人などの此境を來り訪ふものは、これをその曾て見し所の景に比べて、或《ある》は勝《まさ》れりとし或は劣れりともするなるべし。足本國の外を踐《ふ》まざる我徒《ともがら》に至りては、只だその瑰偉《くわいゐ》珍奇なるがために魂を褫《うば》はれぬれば、今|復《ま》たその髣髴《はうふつ》をだに語ることを得ざるならん。
 素《も》とわれは山水の語ることを得べきや否やを疑ふものなり。山水の全景は一齊に人目を襲ふ。而《しか》るにこれを筆舌に上《のぼ》すときは、語を累《かさ》ねて句を作《な》し、句を積みて章を作し、一の零碎の景に接するに他の零碎の景を以てす。譬《たと》へば寄木細工《よせきざいく》の如し。いかなる能辯能文の士なりとも、その描寫遺憾なきことを得ざらん。そが上に我が臚列《ろれつ》する所の許多《あまた》の小景は、われ自らこれを前後左右に排置して寄木の如くならしむるに由なし。その排置の如きは、一に聽者讀者の空想に委《ゆだ》ぬ。是に於いてや、我が説く所の唯一の全景は、人々の心鏡に映じて千樣萬態窮極することなし。且《かつ》人をして面貌《おもばせ》を語らしめて聽け。目は此の如し、鼻は此の如しと云はんも、到底これに縁《よ》りて其眞相を想像するに由なからん。唯《た》だ君の識る所の某に似たりと云ふに至りて、僅にこれを彷彿すべきのみ。山水を談ずるも亦復|是《かく》の如し。人ありて我にヘスペリア[#「ヘスペリア」に二重傍線]の好景を歌へと曰《い》はゞ、我は此遊の見る所を以てこれに應《こた》ふるならん。而して聽者のその空想の力を殫《つく》して自ら描出する所のものは、竟《つひ》にわが目撃せし所の美に及ばざるなるべし。蓋し自然の空想圖は※[#「二点しんにょう+向」、第3水準1−92−55]《はるか》に人間の空想圖の上にあるものなればなり。
 カステラマレ[#「カステラマレ」に二重傍線]を發せしは天氣めでたき日の朝なりき。これを憶《おも》へば烟立つヱズヰオ[#「ヱズヰオ」に二重傍線]の巓《いたゞき》、露けく緑深き葡萄の蔓の木々の梢より梢へと纏ひ懸れる美しき谿間《たにま》、或は苔を被れる岩壁の上に顯《あらは》れ或は濃き橄欖《オリワ》の林に遮られたる白堊《はくあ》の城砦《じやうさい》など、皆猶目前に在る心地ぞする、穹窿《きゆうりゆう》あり大理石柱ある竈女《ヘスチア》の祠《ほこら》の、今や聖母《マドンナ》の堂となりたる(マドンナ、サンタ、マリア)は、古《いにしへ》を好む人の心を留むべき遺蹟なり。一壁崩壞して、枯髏《ころ》殘骨の露呈せる處に、葡萄の覃《は》ひ來りて、半ばそを覆ひたるは、心ありてこの悲慘の景を見せじとするにやとさへ思はれたり。
 我目前には猶突兀《とつこつ》たる山骨の立てるあり。物寂しく獨り聳えたる塔の尖《さき》に水鳥の群立《むらた》ち來らんを候《うかゞ》ひて網を張りたるあり。脚底の波打際を見おろせばサレルノ[#「サレルノ」に二重傍線]の市《まち》の人家|碁子《きし》の如く列《つらな》れり。而して會※[#二の字点、1−2−22]《たま/\》その街を過ぐる一行ありしがために、此一|寰區《くわんく》は特に明かなる印象を我心裡に留むることを得たり。角|極《きはめ》て長き二頭の白牛一車を輓《ひ》けり。車上には山賊四人を縛して載せたるが、その眼は猛獸の如く、炯々《けい/\》として人を射る。瞳黒く貌《かほ》美しきカラブリア[#「カラブリア」に二重傍線]人あり。銃を負ひて、車の兩邊を騎行せり。
 旅の初一日の宿をばサレルノ[#「サレルノ」に二重傍線]と定めたり。この中古學問の淵叢《えんそう》たる市に近づくとき、ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]のいふやう。※[#「糸+賺のつくり」、第3水準1−90−17]帛《けんぱく》は黄變《わうへん》すべし。サレルノ[#「サレルノ」に二重傍線]騷壇の光は今既に滅せり。されど自然といふ大著述は歳ごとに鏤梓《るし》せらる。予はアントニオ[#「アントニオ」に傍線]と同じく、師とするところ此に在りて彼に在らずといふ。われ答へて、自然|固《もと》より師とすべし、只だ書册も亦未だ棄つべからず、譬へば酒飯の並びに廢すべからざるが如しといひしに、フランチエスカ[#「フランチエスカ」に傍線]の君は我言を是なりとし給ひぬ。
 此時フアビアニ[#「フアビアニ」に傍線]公子傍《かたはら》より、アントニオ[#「アントニオ」に傍線]よ、言ふは易く行ふは難きものぞ、羅馬に歸りての後は、その詞の僞ならぬを明にせよといふ。羅馬の一語は我が思ひ掛けざるところなりき。我
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