]。その議官の甥と宣《のたま》ふは、近頃こゝに來て禁軍《このゑ》の指揮官となりし男ならん。我も前《さき》の夜出逢ひしが、才氣ある好男子と思はれたり。想ふに情夫先づ來りて、アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]も繼《つ》いで至るにはあらずや。此推測にして差《たが》はずば、拿破里はアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が最後の興行とその合※[#「丞/己」、99−下段−16]《がふきん》の禮とを見るならん。夫人。禁軍の將校たるものゝ爭《いか》でか歌妓を娶《めと》るべき。そは家を汚すに當るべければ。われ。(震ふ聲をえも隱さで)名士の妻を藝術界に求めて、幸福と名譽とを得たるは、その例《ためし》ありとこそ思ひ候へ。夫人。幸福は或は有らん。名譽は有るべきやうなし。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]。否、おん身に忤《さか》ふには似たれど、己れなどはアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]を得ば、名譽此上なしとおもへり。されば人も然《しか》ならんとおもふなり。そは兎まれ角まれ、アントニオ[#「アントニオ」に傍線]の君、今宵の即興を聞せ給へ。夫人は君がために好き題を撰み給ふべければ。夫人。そは撰むまでもなし。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]の好むところにしてアントニオ[#「アントニオ」に傍線]の能くするところといはゞ、題は戀愛と定まり居るならずや。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]。善くこそ宣《のたま》ひたれ。その戀愛とアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]とを題とせん。われ。又の日にはいかなる題をも辭《いな》まざるべし。今宵のみは免《ゆる》し給へ。心地も常ならぬやうなり。外套着ずして汐風を受け、直ちに火山の熱さに逢ひ、歸るさの車にて又涼風《すゞかぜ》に觸れし故にや。公子。アントニオ[#「アントニオ」に傍線]も早や技藝家の自重といふことを覺えたりと見えたり。今宵は免すべければ、明日《あす》は共にペスツム[#「ペスツム」に二重傍線]に往け。かしこには詩料あり。こも亦拿破里におん身が自重を示す手段なるべし。(我はえ辭《いな》まで會釋せり。)ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]。好し、渠《かれ》を伴ひて行かん。渠一たび希臘廢祠の中に立たば、神來の興忽ち動きて、古のピンダロス[#「ピンダロス」に傍線]を欺く詩を得るならん。公子明日より四日の旅路なり。歸るさにはアマルフイイ[#「アマルフイイ」に二重傍線]とカプリ[#「カプリ」に二重傍線]とを見んとす。夫人。旅の事をば猶明朝かたらふべし。夫人先づ起ちて我等は卓《つくゑ》を離れ、我は始て夫人の手に接吻することを得たり。公子は今夜書を作りてをぢに寄せ、我がために地をなさんと云ひぬ。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]は打ち戲れて、我はアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]を夢にだに見ん、夢なれば決鬪を求むる人はあらじと云ひて別れぬ。
 われ若《も》しこの遊《あそび》を辭《いな》みなば、我生涯の運命はこゝに一變したるならん。後に思へば、此遊の四日は我少壯時代の六星霜を奪ひ去りたるなりき。誰か人間を自由なりと謂ふ。いかにも我は、目前に張りたる交錯せる綱を擇《えら》み引くことを得べし。されど我はその綱のいづれの處に結ばれたるを知るに由なし。我は恩人の勸に會ひて諾《う》と曰ひたり。こは我生涯の未來の幾齣のために、舞臺の幕を緊《きび》しく閉づべき綱なりしを奈何せん。已《や》みぬるかな。
 われは數行の書をフエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]に寄せて、この思掛《おもひがけ》なき邂逅と小旅行とを報ぜんとす。こを寫し畢《をは》りしとき、我胸には種々の情の群り起るを覺えき。さても此夕の事多かりしことよ。サンタ[#「サンタ」に傍線]が道ならぬ戀、ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]の再び逢ひて名告《なの》り合はざる、恩人にめぐりあひての後の境遇、彼といひ此といひ、此身は風のまに/\弄ばるる一片の木葉《このは》にも譬へつべき心地ぞする。きのふは縁なくゆかりなき公衆の喝采を得て、けふは世に稀なるべき美人のわが優しき一言を希《ねが》ひ求むるに逢ふも我なり。忽ち舊誼の絲に手繰《たぐ》り寄せられて、一餐《さん》の惠に頭を垂れ、再び素《もと》のカムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]の孤となるも我なり。恩人夫婦はわが昔の罪を宥《ゆる》して我を食卓に列《つらな》らしめ、我を遊山《ゆさん》に伴はんとす。豈《あに》慈愛に非ざらんや。唯だ富人の手に任せて輕く投卑《とうひ》するときは、その賚《たまもの》は貧人心上の重荷となるを奈何《いかに》せん。

   苦言

 伊太利風景の美は羅馬《ロオマ》又はカムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]の郊野に在らず。されば我が少しくこれを觀ることを得しは、曾《かつ》てネミ[#「ネミ」に二重傍線
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