]に對《むか》ひて云ふやう。君のいつも面白げに見え給ふことよ。犯しゝ科《とが》もあらねば、免《ゆる》すべき筋の事もなし。けふは何の新しき事を齎《もたら》し給ふ。佛蘭西《フランス》新聞には何の記事かありし。昨夜はいづくにてか時を過し給ひしと問ひぬ。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]。新聞には珍らしき事も候はず。昨夜は劇場にまゐりぬ。セヰルラ[#「セヰルラ」に二重傍線]の剃手《とこや》の僅に末齣《まつせつ》を餘したる頃なりき。ジヨゼフイイン[#「ジヨゼフイイン」に傍線]はまことに天使の如く歌ひしが、一たびアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]を聞きし耳には、猶飽かぬ節のみぞ多かりし。さはいへ我が往きしは彼曲のためにはあらず。即興詩を聞かんとてなりき。夫人。その即興詩人は君の心に協《かな》ひしか。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]。わが期《ご》する所の上に出でたり。否、衆人《もろひと》の期せし所の上に出でたり。我は諛《へつら》はんことを欲せず。又藝術は我等の批評もて輕重すべきものにあらず。されど我は夫人に告げんとす。夫人よ、渠《かれ》の即興詩をいかなる者とか思ひ給ふ。謳者《うたひて》の人物はその詩中に活動して、滿場の客はこれが爲めに魅せらるゝ如くなりき。何等の情ぞ。何等の空想ぞ。題にはタツソオ[#「タツソオ」に傍線]あり、サツフオオ[#「サツフオオ」に傍線]あり、地下窟ありき。篇々皆書卷に印して、不朽に垂《た》るとも可なるやう思ひ候ひぬ。夫人。そは珍らしき才ある人なるべし。きのふ往きて聽かざりしこそ口惜しけれ。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]。(我方を見て)夫人は其詩人の今宵の客なるをば、まだ知らでやおはせし。夫人。さてはアントニオ[#「アントニオ」に傍線]なりとか。舞臺にまで上りて、即興詩を歌ひしとか。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]。然《さ》なり。その歌は舞臺の上にも珍らしき出來なりき。されど夫人は舊《ふる》く相識り給ふことなれば、定めて屡※[#二の字点、1−2−22]その技倆を試み給ひしならん。夫人。(ほゝ笑みつゝ)まことに屡※[#二の字点、1−2−22]聞きたり。まだ童《わらべ》なりし頃より、アントニオ[#「アントニオ」に傍線]が技倆をば讚め居りしなり。公子。その時われは早く桂の冠をさへ戴かせたり。夫人は處女なりしとき其即興詩の題となりぬ。されど今は食卓に就《つ》くべき時なり。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]、おん身はフランチエスカ[#「フランチエスカ」に傍線]を伴ひ往け。われは外に婦人なければ即興詩人を伴はん。いざ、アントニオ[#「アントニオ」に傍線]君、手を携へて往かんと、戲れつゝ我を導けり。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]。さるにても、フアビアニ[#「フアビアニ」に傍線]、おん身は何故我に一たびもチエンチイ[#「チエンチイ」に傍線]の事を語らざりしぞ。公子。我家にてはアントニオ[#「アントニオ」に傍線]と呼びならへり。その即興詩人となれるを夢にだに知らねばこそ、前《さき》の和睦の一段は生じたるなれ。アントニオ[#「アントニオ」に傍線]は言はゞ我家の子なり。アントニオ[#「アントニオ」に傍線]、然《さ》にはあらずや。(我は公子を仰ぎ視て會釋せり。)アントニオ[#「アントニオ」に傍線]は好き人物なり。唯だ物學ぶことを嫌へり。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]。渠《かれ》は既に萬物を師とする詩人なり。いかなれば強ひて書を讀ませんとはし給ひし。夫人。(戲《たはぶれ》の調子にて)餘りに讚めちぎり給ふな。我等が渠の机に對ひて數學理學に思を覃《ふか》むるを期せし時、渠は拿破里《ナポリ》の女優に懸想してうはの空なりしなり。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]。そは多情多恨なる證《あかし》なるべし。女優とはいかなる美人なりしぞ。その名をば何とかいひし。夫人。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]とて人柄も技倆も共に優れし女なりき。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]。(盃を擧げて)アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]は我も迷ひし一人なり。そは好趣味ありと謂ふべし。さらば、即興詩人の君、アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]の健康を祝して一杯《ひとつき》を傾けてん。(我は苦痛を忍びて盞《さかづき》を※[#「石+並」、第3水準1−89−8]《うちあは》せたり。)夫人。そも一わたりの迷にあらず。議官《セナトオレ》の甥と鞘當《さやあて》して、敵手《あひて》には痍《きず》を負はせたれど、不思議にその場を遁《のが》れ得たり。かくてこたび「サン、カルロ」座には出でしなり。アントニオ[#「アントニオ」に傍線]をば舊く知りたれども、その大膽なることかくまでならんとは、我等も思ひ掛けざりき。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍
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