サ詩にはあらずや、記憶より出でずして空想より出づるにはあらずやといひ、又恩人の絶交書の事を語るに及びて、苛酷なり、太《はなは》だ苛酷なり、されどそはおん身の改悛《かいしゆん》すべきを期してなり、おん身を愛してなり、おん身はよもや非を遂げて劇場に出でなどはせざりしならんといふ。われは直ちに、否、昨晩出でたりと答へき。公子。そは實に大膽なる事なりき。結果はいかなりしか。われ。望外なりき。喝采の聲止まずして、幕の外に出でゝ謝すること再びなりき。公子。御身にかゝる成功ありしか。そは責《せ》めてもの事なりき。此詞は我材能に疑を挾めるものなれば、われはそを聞きて快からずおもひぬ、されど恩惠の我口を塞げるを奈何せん。われは夫人に會はんことの心苦しさを訴へしに、公子は唯だ戲《たはむれ》に、そは説法なくては濟まぬならん、されど説法を聽聞《ちやうもん》せんもおん身に害あらじと答へぬ。
兎角いふ程に、車は旅店の門に到りぬ。一少年の髮に燒※[#「土へん+曼」、98−上段−29]《やきごて》當てゝ好き衣《きぬ》着たるが、門前に立てり。公子を迎へて云ふやう。フアビアニ[#「フアビアニ」に傍線]なるか。好くこそ歸り來たれ。細君は待ち兼ね給へり。かく云ひつゝ我を視て、扨《さて》は新顏の即興詩人を伴ひ歸りしか、チエンチイ[#「チエンチイ」に傍線]といふなるべし、違《たが》へりやと云ふ。公子はチエンチイ[#「チエンチイ」に傍線]とはと我面を顧みたり。われ。そは我が番附に書かせし名なり。公子。然《しか》なりしか。そは責めてもの思案なりき。少年。フアビアニ[#「フアビアニ」に傍線]、御身は此人のいかに戀愛を歌ひしを想ひ得るか。昨夜おん身が「サン、カルロ」座に往かざりしこそ遺憾なれ。めでたき才藝にこそとて、我と握手し、我と相見る喜びを述べ、又フアビアニ[#「フアビアニ」に傍線]に向ひて云ふ。今宵はおん身に晩餐の馳走を所望すべし。この好謳者《かうおうしや》をおん身等夫婦にて私せんとはせじ。公子。問はるゝまでもなく、おん身は何時にても我方《わがかた》に歡迎せらるゝならずや。少年。さるにてもおん身は、何故に猶我等二人のために紹介の勞を取らずして、互にその名を知ることを得ざらしむるぞ。公子。そはいらぬ禮儀なり。われは熟《よ》く渠《かれ》と相知れり。汝は我友なれば、渠は特《ことさ》らに紹介をば求めざるべし。渠は唯だおん身を知ることを得たるを喜ぶならんといふ。此挨拶は固《もと》より我心に慊《あきたら》ねど、われは又恩惠のために口を塞がれたり。少年は我方に向ひぬ。さらばわれ自ら我身を紹介すべし。おん身の何人たるは我既に知れり。我名はジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]なり。國王陛下の護衞たる一將校なり。(微笑《ほゝゑ》みつゝ)拿破里《ナポリ》の名族にて、世の人は第一に位すとぞいふ。そは僞にもあらざるべし。就中《なかんづく》わがをばは頗るこれに重きを置けり。おん身の如きを知るは、大いなる幸なり。おん身の才と云ひおん身の吭《のど》と云ひと、猶詞を繼がんとするを、フアビアニ[#「フアビアニ」に傍線]は押しとゞめて、止めよ/\、さる挨拶を受くることは猶不慣なるべし、紹介とやらんも最早濟みたるべければ、夫人の許に往かん、かしこには又和議といふ難關あり、おん身仲裁の煩を避けずば、今の辯舌を殘し置きて其時の用に立てよと云ひつゝ、彼士官と我とを延《ひ》きて、旅店の一間《ひとま》に進み入りぬ。われはこの生客《せいかく》の前にて、我身の上の大事を語らるゝを喜ばねど、二人は親しき友なるべければと自ら思ひのどめて、遲れ勝《がち》に跟《したが》ひ行きぬ。
やうやくにして歸り給ひしよと迎ふるは、久しく面を見ざりしフランチエスカ[#「フランチエスカ」に傍線]の君なりき。公子。現《げ》にやうやくにして歸りぬ。されど二人の賓客を伴へり、夫人は一聲アントニオ[#「アントニオ」に傍線]と云ひしが、忽《たちまち》又調子を更《か》へてアントニオ[#「アントニオ」に傍線]君《ぎみ》と云ひつゝ、その嚴《おごそ》かに落つきたる目を擧げて、夫と我とを見くらべたり。われは身を僂《かゞ》めてその手に接吻せんとせしに、夫人は我を顧みず、手をジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]にさし伸べて、晩餐の友を得たる喜を述べ、夫に向ひて、ヱズヰオ[#「ヱズヰオ」に二重傍線]の爆發はいかなりし、熔巖はいづ方へ流れんとするなど問ひぬ。公子は略《ほ》ぼ見しところを語りて、我等の邂逅の事に及び、今は客として伴ひたれば昔の事を責め給ふなと云へり。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]。然《さ》なり。此人いかなる罪を犯しゝか知らず。されど天才には何事をも許さるべきならずや。夫人は纔《わづか》に面を和《やはら》げて我に會釋しつゝジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍
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