ヘ岸|拍《う》つ波に似たり。その落ちて地上に留まるや、猶暫くその火紅を存じて、銀河の側に輝く星を看る如し。既にして空氣は漸くその隅角と周縁とを冷却して黒變せしめ、そのさま黒き絲もて編める網に黄金を裹《つゝ》める如し。
 熔巖の流れ行く先なる葡萄の幹に聖母《マドンナ》の像を懸《か》けたるものあり。こはその功徳《くどく》もて熔巖の炎を避けんとのこゝろしらひなるべし。されど熔巖はその方嚮《はうかう》を改めず。像を懸けたる一本《ひともと》の葡萄は、早く熱のために葉を焦《こが》し、その幹は傾きて、首を垂れ憐を乞ふ如くなり。衆人《もろひと》の中なる淳樸《じゆんぼく》なる民等が眼は、その發落《なりゆき》いかならんとこの尊き神像に注げり。幹は愈※[#二の字点、1−2−22]曲り低《た》れて、今や聖母《マドンナ》のおほん裳裾《もすそ》と火の流との間數尺となりぬ。忽ち我が立てる側なるフランチスクス[#「フランチスクス」に傍線]派の一僧ありて、もろ手高くさし上げて叫べり。聖母は火に燒かれ給はんとす。汝等を永劫不滅の火焔の中より救ひ給ふ聖母なるぞ。早や助け出さずやといふ。衆人は皆震慄して一歩退き、畏怖の眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》りて、次第に撓《たわ》む梢頭の尊像を仰げり。一人の女房あり。口に聖母の御名《みな》を唱へつゝ、走りて火に赴きて死せんとす。爾時《そのとき》僅に數尺を剩《あま》したる烈火の壁面と女房との間に、馬を躍らして騎《の》り入りたる一士官あり。手に白刃を拔き持ちてかの女房を逐ひ郤《しりぞ》け、大音に呼びけるやう。物にや狂ふ、女子《をなご》、聖母《マドンナ》爭《いか》でか汝が援《たすけ》を求めん。聖母は彼|拙《つたな》く彩《いろど》りたる、罪障深きものゝ手に穢《けが》されたる影像の、灰燼となりて滅せんことをこそ願ふなれといふ。その聲はベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]が聲なり。その行《おこなひ》は※[#「倏」の「犬」に代えて「火」、第4水準2−1−57]忽《しゆくこつ》の間に一人の命を助けて、その言は俗僧の妄誕《ばうたん》をいましめ得たるなり。われはこの昔の友を敬する念を禁ずること能はずして、運命の我等二人を遠離《とほざ》けしを憾《うらみ》とせり。されど我胸は高く跳りて、今|渠《かれ》に對《むか》ひて名告《なの》り合ふことを欲せず、又能はざりき。

   舊羈※[#「革+勺」、第3水準1−93−76]《きうきてき》

 アントニオ[#「アントニオ」に傍線]ならずやと呼ぶ聲あり。我に迫りて手を※[#「てへん+參」、97−下段−3]《と》れり。初はわれベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]の己れを認め得たるならんとおもひしが、その面を視るに及びて、そのフアビアニ[#「フアビアニ」に傍線]公子なるを知りぬ。公子はわが昔の恩人の壻《むこ》にして、フランチエスカ[#「フランチエスカ」に傍線]の君の夫なり。我を以て不義の人となし、我に訣絶《けつぜつ》の書を贈れる人の族《うから》なり。公子。こゝにて逢はんとは思ひ掛けざりき。夫人に語らば定めて喜ぶことならん。されどいかなれば夙《はや》く我們《われら》を訪《たづ》ねんとはせざりし。カステラマレ[#「カステラマレ」に二重傍線]に來てより既に八日になりぬ。われ。君達のこゝに在《いま》すべしとは、毫《すこ》しも思ひ掛けざりき。そが上わが伺候を許し給はんや否やだに知らねば。公子。現《げ》にさることありき。おん身は昔にかはる男となりて、婦人のために人と決鬪し、脱走したりとの事なりき。そは我とても好しとは思はず。をぢ君のことば短なる物語にて、その概略《あらまし》を知りし時は、我等もいたく驚きたり。おん身はをぢ君の書を獲たるならん。その書は優しき書にはあらざりしならんといふ。我はこれを聞きつゝも、むかしの羈※[#「革+勺」、第3水準1−93−76]《きづな》の再び我身に纏《まつは》るゝを覺えて、只だ恩人に見放されたる不幸なる身の上を侘《かこ》ちぬ。公子は我を慰めがほに、又詞を繼いで云ふやう。否々、おん身を見放さんはをぢ君の志にあらず。我車に上りて共に來よ。今宵は妻のために思掛《おもひがけ》なき客を伴ひ還らんとす。カステラマレ[#「カステラマレ」に二重傍線]は遠くもあらず。旅宿は狹けれど、猶おん身が憩はん程の房《へや》はあるべし。をぢ君の性急なるはおん身も兼ねて知れるならずや。この和睦《わぼく》をばわれ誓ひて成し遂ぐべしといふ。我は首を垂れてこの成《たひら》ぎの覺束《おぼつか》なかるべきを告げしに、公子は無造作に我詞を打消して、我を延《ひ》きて車の方に往きぬ。
 車に乘りてより、公子は我に別後の事を語れと迫りぬ。わが賊寨《ぞくさい》に入りしことを語るに及びて、公子は面に笑を帶びて、そは即
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