フ光遠く四境を照せり。涼を願ふ煩心《わづらひごゝろ》は、我を驅《か》りてモロ[#「モロ」に二重傍線]の船橋を下り、汀灣《みぎは》に出でしめたり。我は身を波打際にはたと僵《たふ》しつ。我は自《みづか》ら面の灼《や》くが如く目の血走りたるを覺えて、巾《きれ》を鹹水《しほみづ》に漬《ひた》して額の上に加へ、又水を渡《わた》り來る汐風《しほかぜ》の些《すこ》しをも失はじと、衣の鈕《ボタン》を鬆開《しようかい》せり。されど到る處皆火なるを奈何《いかに》せん。山腹を流れ下る熔巖の色は海波に映じて、海もまた燃えんとす。眸を凝らして海を望めば、髣髴《はうふつ》の間、サンタ[#「サンタ」に傍線]が姿のこの火焔の波を踏みて立ち、その燃ゆる如き目《ま》なざしもて我を責め我を訴ふるを視、耳邊忽ち又妾を殺せ、妾を殺せと叫ぶを聞く。われ眼を閉ぢ耳を掩《おほ》ひ、心に聖母を念じて、又|※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶた》を開けば、怖るべき夫人の身は踉蹌《よろめ》きて後《しりへ》に※[#「足へん+倍のつくり」、第3水準1−92−37]《たふ》れんとす。そのさま火焔の羽衣を燒くかとぞ見えし。あはれ、其罪を想ふだに、畏怖の念の此の如きあり。その罪を遂げたらん後は、果して奈何なるべき。
もゆる河
舟に召さずや、檀那《だんな》、トルレ、デル、アヌンチヤタ[#「トルレ、デル、アヌンチヤタ」に二重傍線]へ渡しまゐらせんと呼ぶ聲は、身のほとりより起りて、そのアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]といふ語は、猶能く思に沈みし我を喚《よ》び起せり。頭を擡《もた》げて見れば、岸近く櫂《かい》を止《やす》めたる舟人あり。熔巖の流るゝこと一分時に三|臂長《ひちやう》なりといへり、(伊太利の尺の名)往きて看給はんとならば、半時間には渡しまゐらせんといふ。舟は我熱を冷《さま》すに宜しからんとおもへば乘りぬ。舟人は棹《さを》取りて岸邊を離れ、帆を揚げて風に任せたるに、さゝやかなる端艇《はぶね》の快《こゝろよ》く、紅の波を凌《しの》ぎ行く。汐風《しほかぜ》兩《りやう》の頬《ほ》を吹きて、呼吸漸く鎭《しづ》まり、彼方の岸に登りしときは、心も頗るおちゐたり。
我は心に誓ひけるやう。我は再び博士の閾《しきゐ》を踰《こ》えじ。禁ぜられたる果《このみ》を指《ゆび》ざし示す美しき蛇に近づきて、何にかはすべき。幾千《いくち》の人か、これによりて我を嘲り我を侮《あなど》るべけれど、猶良心に責められんには※[#「二点しんにょう+向」、第3水準1−92−55]《はるか》に優れり。壁の上なる聖母《マドンナ》は、我を墮《おと》さじとてこそ自ら墮ち給ひけめ。斯く思ふにつけて、聖母の惠の袖に掩《おほ》はれつゝ、水をも火をも避け得つべき喜は一身に溢れ、心の中に有りとあらゆる善なるもの正なるものは一齊に凱歌を奏し、我は復《ま》た心の上の小兒となりぬ。天に在《いま》す父よ、願はくは禍《わざはひ》を轉じて福《さいはひ》となし給へと唱へつゝ、身を終ふるまでの安樂の基《もとゐ》を立てもしたらん如く、足は心と共に輕く、こゝの小都會を歩み過ぎて、田圃《たんぼ》間《あひ》の街道に出でぬ。
人叫び、人笑ひ、人歌ひ、徒《かち》にて走るものあり、大小くさ/″\の車を驅るものあり。その騷しさ言はん方なし。熔巖《ラワ》の流は今しも山麓なる二三の村落を襲へるなり。一群の老若男女ありて奔《はし》り逃れんとす。左に嬰兒を抱き、右に裹《つゝ》みを挾《わきばさ》める村婦の、且泣き且走るあり。われは財嚢《ざいのう》を傾けてこれに贈りぬ。われは山に向ふ看者《みて》の間に介《はさ》まりて、推《お》されながらも、白き石垣もて仕切りたる葡萄圃《ぶだうばたけ》の中なる徑《こみち》を登り行きぬ。衆人は先を爭ひて、熔巖の將に到らんとする部落の方へと進めり。われは數畝の葡萄圃を隔てゝ、始て熔巖を望み見たり。數間《すけん》の高さなる火の海は墻《まがき》を掩ひ屋《いへ》を覆ひて漲り來れり。難に遭へるものは號泣し、壯觀に驚ける外國人《とつくにびと》は讙呼《くわんこ》して、御者商人などは客を招き價を論ぜり。馬に跨れる人あり、車を驅れる人あり、燒酎|鬻《ひさ》ぐ露肆《ほしみせ》を圍みて喧譟《けんさう》せる農夫の群あり。凡そ此等のもの總て火光に照し出されたれば、そのさま筆舌もて描き盡すべからず。
熔巖は同じ嚮《むき》に流れ行くものなれば、好事《かうず》のものは歩み近づきて迫り視ることを得べし。杖の尖《さき》又は貨幣などを※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]込《さしこ》みて、熔巖の凝りて着きたるを拔き出し、こを看たる記念にとて持ち行くものあり。流れ下る熱質の一部、その高きが爲めに分れて迸り落つることありて、その奇觀
前へ
次へ
全169ページ中103ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
アンデルセン ハンス・クリスチャン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング