ノなりて、四邊《あたり》のものごとの我を樂ましむる由を語りしに、夫人は我手を引き寄せて我と目と目を見合せたり。その目《ま》なざしは人の心の奧深く穿《うが》ち透すものゝ如くなりき。夫人は現《げ》に美しき女なりき。又此時は常にも増して美しく見えたり。その頬は薄紅に匂へり。形好くつやゝかなる額際より、平に後《うしろ》ざまに櫛けづりたる黒髮は、ゆたかなる波打ちて背後《うしろ》に垂れたり。譬へば古のフイヂアス[#「フイヂアス」に傍線]ならではえ作るまじきユノ[#「ユノ」に傍線]の姿にも似たるなるべし。夫人。されば君は世のために生存《ながら》へ給ふべき人なり、世の寶なり、幾百萬の人をか喜ばせ樂ませ給ふらん。ゆめ一人の人になその尊き身を私《わたくし》せしめ給ひそ。世の中の人、誰かおん身を戀ひ慕はざらん。おん身の才、おん身の藝は、いかなる頑《かたくな》なる人の心をも挫《くじ》きつべし。斯く云ひつゝ、夫人は我を引きて、其|長椅《ヂワノ》の縁に坐《こしか》けさせ、さて詞を繼ぎて云ふやう。猶改めておん身に語るべき事こそあれ。疇昔《さき》の日おん身が物思はしげに打沈みてのみ居給ひしとき、拙《つたな》き身のそを慰め參らせばやとおもひしことあり。その時より今日までは、まだしみ/″\とおん物語せしことなし。いかに申し解き侍らんか。おん身は妾《わらは》が心を解き誤り給ひしにはあらずやと思はれ侍りといふ。嗚呼、此詞は深く我を動したり、我もしば/\或は情《なさけ》厚き夫人の詞、夫人の振舞を誤り解《げ》したるにはあらずやと、自ら疑ひ自ら責めしことあり。われは唯だ、御身が情は餘りに厚し、我身はそを受くるにふさはしからずと答へて、夫人の手背に接吻し、自ら勵まし自ら戒《いまし》めて、淨き心、淨き目もて夫人の面を仰ぎ視たり。夫人の美しく截《き》れたる目の深黒なる瞳は、極めて靜かに極めて重く、我面を俯視《ふし》す。若し人ありて、此時我等二人を窺ひたらんには、われその何の辭《ことば》もてこれを評すべきを知らず。されどわれは聖母《マドンナ》に誓ふことを得べし。我心は清淨|無垢《むく》にして、譬へば姉と弟との心を談じ情を話《わ》するが如くなりしなり。さるを夫人の目には常ならぬ光ありて、その乳房のあたりは高く波立てり。われはその自《おのづか》ら感動するを以爲《おも》へり。夫人は呼吸の安からざるを覺えけん、領《えり》のめぐりなる紐一つ解きたり。夫人は、おん身にふさはしからざる情《なさけ》といふものあるべしや、おん身の才《ざえ》あり、おん身の貌《かほばせ》ありてとさゝやきて、徐《しづ》かに臂《ひぢ》を我肩に纏ひ、きと目と目を見合せて、無際限の意味ありげなる、名状すべからざる微笑を面に湛《たゝ》へ、猶其詞を繼いで云ふやう。いかなれば妾《わらは》は初め君を知る明なくして、空想に耽り實世《じつせ》に疎《うと》き、偏僻《へんぺき》なる人とは看做《みな》したりけん。おん身は機微を知り給へり。機微を知るものは必ず能く勝を制す。妾が血を焚《や》いて熱をなすものは何ぞ。妾を病ましむるものは何ぞ。妾は寤《さ》めて何をか思へる。妾は寐《いね》て何をか夢みたる。おん身の愛憐のみ。おん身の接吻のみ。アントニオ[#「アントニオ」に傍線]よ。妾が身を生けんも殺さんも、唯だおん身の命《めい》のまゝなり。夫人はひしと我身を抱けり。一道の猛火《みやうくわ》は夫人の朱唇より出でゝ、我血に、我心に、我|靈《たましひ》に燃えひろごりたり。彼時速し、此時遲し。はたと我頂を撃つものあり。嗚呼、功徳《くどく》無量なる聖母《マドンナ》よ。こはおん身の像を寫せる小※[#「匚<扁」、第4水準2−3−48]額《せうへんがく》にして、偶※[#二の字点、1−2−22]《たま/\》壁頭より墮《お》ち來りしなり。否《あら》ず、偶※[#二の字点、1−2−22]墮ち來りしに非ず。聖母は我が慾海の波に沈み果てんを愍《あはれ》みて、ことさらに我を喚び醒《さま》し給ひしなり。否※[#二の字点、1−2−22]と叫びて、我は起ち上りぬ。我渾身の血は涌き返る熔巖にも比べつべし。アントニオ[#「アントニオ」に傍線]よ、妾《わらは》を殺せ、妾を殺せ、只だ妾を棄てゝな去りそと、夫人は叫べり。其|臉《かほ》、其|眸《まなじり》、其|瞻視《せんし》、其|形相《ぎやうさう》、一として情慾に非ざるもの莫《な》く、而《しか》も猶美しかりき。火もて畫き成せる天人の像とや謂ふべき。我身の内なる千萬條の神經は一時に震動せり。我は一語を出すこと能はずして、室を出で階《きざはし》を下りぬ、怖ろしきものに逐はれたらん如く。
 戸の外の皆火なること、身の内の皆火なると同じかりき。薫赫《くんかく》の氣は先づ面を撲《う》てり。ヱズヰオ[#「ヱズヰオ」に二重傍線]の嶺は炎焔|霄《そら》を摩し、爆發
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