Iオ[#「サツフオオ」に傍線]との傳は今煩を憚《はゞか》りて悉く註せず。)看客は皆泣けり。拍手の聲は狂瀾怒濤の如く、幕一たび墮ちて後、われは二たび幕の外に呼び出されぬ。
喜は身に滿ち兼ねて胸を壓せり。舞臺を下りて、人々の來り賀するに逢ひし時、われは痙攣《けいれん》のさましたる啼泣を發したり。此夕サンチイニイ[#「サンチイニイ」に傍線]、フエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]及二三の俳優は我が爲めに小筵《せうえん》を開けり。我心は嬉《たのし》みたれど我舌は緘《むす》ぼれたりき。フエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]打興じて曰ふやう。此男は一の明珠なり。その一失は第二のヨゼツフ[#「ヨゼツフ」に傍線]たるにあり。(ヨゼツフ[#「ヨゼツフ」に傍線]は童貞女の夫にして耶蘇の義父なり。)盍《なん》ぞ薔薇を摘まざる、その凋落《てうらく》せざるひまに。
夜更けて後客舍に歸り、聖母と救世主との我を棄て給はざりしを謝して、いと穩なる夢を結びつ。
人火天火
翌朝は心地|爽《さはや》かに生れ更《かは》りたる如くにて、われはフエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]に對して心のうちの喜を語ることを得たり。身の周圍なる事々物々、皆我を慰むるものに似たり。又我心は一夜の間に老成人となりたるを覺えぬ。そは喝采の雨露の我性命樹上に墜ちて、其果實を熟せしめたるにやあらん。われは昨夜サンタ[#「サンタ」に傍線]の劇場にありしを知る。いでや往きて彼夫人をたづね、その讚詞をも受けてましと、足の運《はこび》も常より輕く、マレツチイ[#「マレツチイ」に傍線]博士の家に往きぬ。博士は繰り返しつゝよろこびを陳《の》べて、さてその妻の劇場より歸りし後夜もすがら熱に惱みしを告げたり。又|曰《い》ふ、今は眠れり、眠|醒《さ》めなば必ず快きに至るならん、夕暮に再び訪ひ給へと。午餐にはフエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]新に獲たる友だちと、我を誘ひ出して酒店《さかみせ》に至り、初め白き基督涙號《ラクリメエ、クリスチイ》を傾け、次いで赤き「カラブリア」號を倒し、わが最早え飮まずと辭《いな》むに※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1−92−53]《およ》びて、さらば三鞭酒《シヤンパニエ》もて熱を下《さま》せなどいひ、歡《よろこび》を盡して別れぬ。街《ちまた》に歩み出づれば、大空は照りかゞやきぬ。そはヱズヰオ[#「ヱズヰオ」に二重傍線]の山の噴火一層の劇《はげ》しさを加へて、熔巖の流愈※[#二の字点、1−2−22]|闊《ひろ》く漲り遠く下ればなり。岸邊には早くそを看んとて、舟を買ひて漕ぎ出づるものあり。
「アヱ、マリア」の鐘鳴り止む頃、再び博士の家に往きぬ。門に進みて婢《はしため》に問へば、家にいますは夫人のみにて、目覺《めざ》めて後は快くなれりとのたまへり。間雜《つね》の客をばことわれと仰せられつれど、檀那《だんな》は直ちに入り給ひても宜《よろ》しからんとなり。美しくして晴れがましからず、心もおのづから靜まりぬべき室なり。窓の前には厚き質の幌《とばり》を垂れたるが、長く床を拂へり。鏃《やじり》研《と》ぐ愛の神の童の大理石像あり。アルガント[#「アルガント」に傍線]燈は人を迷はさんと欲する如き光もてこれを照し出せり。こはわが轉瞬の間に看出《みいだ》したる室内のさまなりき。夫人は輕げなる寢衣《ねまき》を着て、素絹の長椅《ソフア》の上に横はりたりしが、我が入るを見て半ば身を起し、左手《ゆんで》もて被《ひ》を身に纏ひ、右手を我にさし伸べたり。
アントニオ[#「アントニオ」に傍線]の君よ、思の儘に捷《か》ち給ひぬ、おん身も嬉しと思ひ給ふならん、千萬人の心は渾《すべ》て君に奪はれたり、君は初め我がいかに君のために胸を跳らせ、後君の成功の期《ご》するところに倍するに及びて、いかに君のために安心の息《いき》を※[#「口+(虍/乎)」、95−中段−6]《つ》きたるかを知り給ふまじとは、夫人が我を迎ふる詞なりき。われはその病を問ひしに、否、はや※[#「やまいだれ+差」、第4水準2−81−66]《い》えんとす、君も生れ更り給へる如し、舞臺に立ち給ひしとき、君の姿は美しかりき、極めて美しかりき、興會に乘じて歌ひ給ふに及びては、この世の人とは覺えざりき、又その歌ひ給ふところは皆君が上なるやうに聞き做《な》されたり、地下の窟《いはや》に迷ひ入りし少年と畫工とは、君とフエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]の君とに外ならず思はれたりといふ。われ。いかにもそは宣《のたま》ふところの如し。我が歌ひしは皆我閲歴なりしなり。夫人。しかなるべし。君は戀の喜をも知り給へり、戀の悲をも知り給へり。君は樂を享《う》くべき福《さいはひ》ある人なり。今よりその福を消受し給はんことをこそ祈れといふ。われ隨即《やがて》きのふより心爽か
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