q悉く存じて、往來織るが如く、その殷富《いんぷ》豐盛なること、書《ふみ》讀む人の遺蹟を見て説き聞かするところに増したり。少女は嘗て其羽を脱ぎ卸《おろ》して、その童子の肩に結び、いざ共に空に翔《かけ》らんといふ。おのれは風なす輕き身なれば、羽なきと羽あると殊ならずとなり。橘柚《オレンジ》檸檬《リモネ》の林を見下し、高くは山巓《さんてん》の雲を踏み、低くは水草茂れる沼澤の上を飛びしときは、終に茫漠たる平野の正中《たゞなか》なる羅馬の都城に至りぬ。鏡の如き蒼海を脚下に見、カプリ[#「カプリ」に二重傍線]の島の外遠く翔《かけ》りて、夕陽の雲の奧深く入りしときは、忽ち粉※[#「土へん+楪のつくり」、第4水準2−4−94]彫墻《ふんてふてうしやう》の前に横はるを見て、これは何ぞと問ひしに、少女答へて、母君の築き給ひし城よと云ひぬ。少女は童子と樂しき日をこの城の内に送りしこと數※[#二の字点、1−2−22]なりき。童子の齡《よはひ》漸く長ずるに及びて、少女の訪ひ來ること漸く稀になり、はてはをり/\葡萄棚の葉の間又は柑子の樹の梢の隙《ひま》より、美しき目もてそとさし覗くのみとなりぬ。童子はこれを見るごとに戀しく懷《なつ》かしきこと限なく、人知らぬ愛に胸を苦めたりき。漁父は童子を伴ひて海に往き、艫《ろ》を搖《うごか》し帆を揚げ、暴風と爭ひ怒濤と鬪ふことを教へつ。年|長《た》けて後、この少年の今は影だに見せぬ昔の友を懷ふ情は愈※[#二の字点、1−2−22]深くのみなりゆきぬ。月清く波靜なる夜半に、獨り舟中にあるときは、ともすれば艫を搖す手のおのづから休み、澄み渡りて底深く生《お》ふる藻のゆらめくさへ見ゆる水にきと目を注《つ》けて、瞬《またゝき》もせず打目守《うちまも》ることあり。かゝる時は昔の少女、その嬌眸を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》きて水底《みなそこ》より覗き、或は頷《うなづ》き或は招けり。とある朝漁村の男女あまた岸邊に集ひぬ。そは旭日の波間より出でんとする時、一箇の奇《く》しく珍らしき島國のカプリ[#「カプリ」に二重傍線]に近き處に湧き出でたればなり。飛簷《ひえん》傑閣隙間なく立ち並びて、その翳《くもり》なきこと珠玉の如く、その光あること金銀の如く、紫雲棚引き星月|麗《かゝ》れり。現《げ》にこの一幅の畫圖の美しさは、譬へば長虹を截《た》ちてこれを彩《いろど》りたる如し。蜃氣樓よと漁父等は叫びて、相|指《ゆびさ》して嬉《たのし》み笑へり。彼の漁父の子のみは獨り笑はざりき。知らずや、かの樓閣はわが昔少女と共に遊び暮しゝ處なるを。懷舊の念しきりにして、戀慕の情止むことなく、雙眸《さうぼう》涙に曇る時、島國は忽ち滅《き》えたり。月あかき宵の事なりき。島國は又湧き出でぬ。忽ち一隻の舟ありて、漁父等の立てる岬《みさき》の下より、弦《つる》を離れし征箭《さつや》の如く、波平かなる海原を漕ぎ出で、かの怪しき島國の方に隱れぬ。黒雲空を蔽ひて、海面には暗緑なる大波を起し、潮水倒立して一條の巨柱を成せり。須臾《しゆゆ》にして雲|斂《をさ》まり月清く、海面|復《また》た平かになりぬ。されど小舟は見えざりき。彼漁父の子も亦あらずなりぬ。歌ひ畢《をは》るとき、喝采の聲前に倍し、我膽力は漸く大に、我|興會《きようくわい》は漸く高し。
第三曲の題はタツソオ[#「タツソオ」に傍線]なりき。われは一たびタツソオ[#「タツソオ」に傍線]たりしことあり。レオノオレ[#「レオノオレ」に傍線]は即ちアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]なり。我等はフエルララ宮中に相見たり。われは囹圄《れいご》の苦を嘗め、懷裡に死を藏して又自由の身となり、波立てる海を隔てゝソルレントオ[#「ソルレントオ」に二重傍線]より拿破里《ナポリ》を望み、また聖《サン》オノフリイ[#「オノフリイ」に二重傍線]寺の※[#「木+解」、第3水準1−86−22]樹《かしのき》の下に坐し、戴冠式の鐘聲カピトリウム[#「カピトリウム」に二重傍線]街頭に起るを聞けり。されど冥使早く至りて其冠をわれに授けつ。是れ不死不滅の冠なりき。思想の急流は我を漂し去りて、我|心跳《しんてう》は常に倍せり。
最後の一曲はサツフオオ[#「サツフオオ」に傍線]の死を題とす。嫉妬の苦も亦我が自ら味ひたるところなり。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が痍負《てお》ひたるベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]に吝《おし》まざりし接吻は、今|憶《おも》ふも猶胸焦がる。サツフオオ[#「サツフオオ」に傍線]の美はアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]に似て、その戀情の苦は我に似たり。波濤はこの可憐なる佳人を覆ひ了《をは》んぬ。(十六世紀の伊太利詩人タツソオ[#「タツソオ」に傍線]と前七世紀の希臘《ギリシア》女詩人サツフ
前へ
次へ
全169ページ中100ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
アンデルセン ハンス・クリスチャン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング