は漲《みなぎ》り來りて我面を撲《う》てり。われは我精神の此の如く安く夷《たひらか》なるべきをば期せざりき。その状態は固より興奮せり。而《しか》れどもその諸機に※[#「てへん+長」、93−上段−4]觸《たうしよく》[#「※[#「てへん+長」、93−上段−4]觸」は底本では「 觸」]し易き性は十分に備はりたり。われは自家の精神作用の緊張を覺ゆると共に、又其明徹を覺えたり。猶晴れたる冬の日の空氣の極めて冷に兼ねて極めて明なるがごとくなるべし。
看客は片紙に題を記して出し、警吏これを檢して、その法律に抵觸せざるを認めたる後、われに交付す。われは數題中に就いて其一を簡《えら》み取る自由あり。初なる一紙には侍奉《じぶ》紳士と題せり。こは人妻《ひとづま》に事《つか》ふる男を謂ふ。中世士風の一變したるものなるべし。されどわれは未だ深く心をこれに留めしことなし。(原註。「イル、カワリエル、セルヱンテ」又「チチスベオ」、今侍奉紳士と翻《ほん》す。此俗|本《も》とジエノワ[#「ジエノワ」に二重傍線]府|商賈《しやうこ》より出づ。その行販して郷を離るゝもの婦を一友に托す。これを侍奉紳士といふ。初め僧に托するを常とせしが、後又俗士を擇《えら》む。侍奉紳士は婦の早起|盥漱《かんそう》する時より、深更寢に就く時に至るまで、其身邊に在りて奉侍す。他婦を顧みることを容《ゆる》さず、聞く侍奉紳士中|※[#「女+徭のつくり」、第4水準2−5−69]褻《いんせつ》に及ばざるもの往々にして有り。嘗て一男子の歿するや、其|誄辭《るゐじ》中侍奉紳士となりて責を負ひ任を全うすといふ語ありきと。)われは此俗を歌ふ一曲の人口に膾炙《くわいしや》するものあるを知れど、急にこれに依りて思を搆《かま》ふること能はず、(曲とは「フエミナ、ヂ、コスツメ、ヂ、マニエレ」と題するものを謂ふ、「ソネツトオ」なり、ミユルレル[#「ミユルレル」に傍線]の羅馬と其士女との卷中に收めたり。)望を第二紙に屬してこれを開きたり。紙上にはカプリ[#「カプリ」に二重傍線]と書せり。是れ亦わが爲めの難題なり。われは拿破里《ナポリ》よりその山脈の美しきを賞しつれども、未だ一たびも此島に航せしことあらず。若し二者中一を取らば、猶侍奉紳士をこそ辭を措《お》き易しとせめ。われは第三紙を開きたり。題して拿破里の窟墓といふ。これも亦我未知の境なり。されど窟墓の一語は忽ち少時の怖ろしき經歴を想ひ起す媒《なかだち》となりぬ。フエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]との漫歩《そゞろありき》より地下に路を失ひたる時の心の周章など、悉く目前に浮びぬ。われは直ちに絃を撥《はじ》きて歌ひ出でぬ。章句は自らにして成りぬ。われは唯だ自家少時の經歴を語りしのみ、唯だ羅馬の地下窟を以て拿破里の地下窟となしゝのみ。即興詩の末解は、一たび失ひつる絲の端を再び探り得たる喜を敍したり。喝采はあまたゝび起りぬ。われは脈絡中に三鞭酒《シヤムパニエ》の循《めぐ》るが如き感をなしたり。
われは第二曲の題として蜃氣樓《しんきろう》を得たり。こは拿破里又シチリア[#「シチリア」に二重傍線]の水濱にて屡※[#二の字点、1−2−22]見《あらは》るゝものといへど、われは未だ嘗て見しことあらず。唯だ此重樓複閣の奧には、我に親しき神女|棲《す》み給ふ。これをフアンタジア[#「フアンタジア」に傍線](空想)の君とはいふなり。われは唯だ平生夢裏に遊べる境界《きやうがい》を歌はんのみ。その中には同じ神女の宮殿あり、苑囿《ゑんいう》あり。われは急に我資材を引纏めて、一の布局を定め、一の物語となしたり。歌ひ出づるに從ひて、新しき思想は多く來り加はりぬ。先づ敍したるは荒廢せる一寺院なりき。景をポジリツポ[#「ポジリツポ」に二重傍線]に取りて、わざと其名をば擧げざりき。簷《のき》傾き廊朽ちて、今や漁父の栖家《すみか》となりぬ。聖像を燒き附けたる窓の下に床ありて、一童子臥したり。月あかくいと靜けき夜、美しき童女來りおとづれぬ。その美しさは譬へんに物なく、その身の輕きことそよ吹く風に殊ならず。兩の肩には五彩燦然たる翼|生《お》ひたり。二人は共に嬉《たのし》み遊べり。少女《をとめ》は漁家の子を引きて、緑深き葡萄園に往き、又近きわたりの山に分け入るに、まだ見ぬ景色いと多く、殊に山腹の自ら闢《ひら》けて、その中にめでたき壁畫と數多き贄卓《にへづくゑ》とある寺院の見えたるなど、言へば世の常なり。或るときは共に舟に棹《さをさ》して青海原を渡り、烟立つヱズヰオ[#「ヱズヰオ」に二重傍線]の山に漕ぎ寄せつるに、山は全《また》く水晶より成れりと覺しく、巖の底なる洪爐《こうろ》中に、烟《けぶり》渦卷《うづま》き火燃え上るさま掌《たなぞこ》に指すが如くなり。或るときは共に地下の古市に遊ぶに、康衢《かうく》屋
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