ミわなゝくを覺えて、力なく亭内なる長椅の上に坐したり。花卉《くわき》の薫《かをり》、幽かなる樂聲、暗き燈火《ともしび》、軟《やはらか》なる長椅は我を夢の世界に誘《いざな》ひ去らんとす。現《げ》に夢の世界ならでは、この人に邂逅すべくもあらぬ心地ぞする。少焉《しばし》ありて前《さき》のアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]に似たる少女は此室に入り、將に進みて我が居る亭に入らんとす。われは心にいたく驚きて、身内《みうち》の血の湧き立つを覺えき。その時ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]は忽ち聲朗かに歌ひはじめたり。少女は聲をしるべに隣の亭に入りぬ。衣《きぬ》の戰《そよ》ぎと共に接吻の聲我耳を襲へり。此聲は我心を焦《こが》し爛《たゞら》かせり。嗚呼アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]は我を去りて此輕薄男子に就《つ》きしなり。この男子アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]を獲てより幾時をか經し。而るに其唇は早く既にこの淤泥《おでい》もて捏《こ》ね成したる妖姫の身に觸るゝなり。われは此室を馳《は》せ出で、此家を馳せ出でたり。我胸は怒と悲とのために裂けんとす。此夜は曉近うして纔《わづか》にまどろむことを得たり。
 我が「サン、カルロ」の劇場に登るべき日は明日《あす》となりぬ。これを待つ疑懼《ぎく》の情と、さきの夜戀の敵に出逢ひたる驚愕の念とは我をして暫くも安んずること能はざらしむ。わが聖母《マドンナ》其他の諸聖を祈る心の切《せち》なりしこと此時に過ぐるはなかりき。われは寺院に往きて、彼の救世者流血の身に擬したる麪包《パン》を乞ひ受け、その奇《く》しき力の我を清淨にし我を康強にせんことを祷《いの》りぬ。尊き麪包は果して我に多少の安堵を與へぬ。されどこゝに最も心にかゝる一事あり。そはアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]の此地にあるにはあらずや、ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]はこれに隨ひて來たるにはあらずやといふ疑問なりき。既にしてフエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]は我が爲めに偵知して、アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]のこゝにあらず、ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]の四日前に單身こゝに到りしを報ず。友は綿密に市《まち》の來賓簿を閲《けみ》しくれたるなり。サンタ[#「サンタ」に傍線]の熱は未だ痊《い》えず、されど明日《あす》の興行には必ず往かんと誓へり。ヱズヰオ[#「ヱズヰオ」に二重傍線]は火を噴き灰を雨《ふ》らすること故《もと》の如し。而して我名を載せたる番付は早く通衢《ちまた》に貼《は》り出されたり。

   初舞臺

 日暮れて劇場の馬車の我を載せ行きしは、樂劇《オペラ》の幕の既に開《あ》きたる後なりき。若し運命の女神にして、剪刀《はさみ》を手にして此車中に座したらんには、恐らくは我は、いざ、截《き》れと呼ぶことを得しならん。われは只だ神を頼みて餘念なかりき。
 場内の逍遙場《フオアイエエ》には俳優と文士と打雜《うちまじ》りたる一群ありき。中には我と同業なる即興詩人さへありて、其名をサンチイニイ[#「サンチイニイ」に傍線]と云ふ。平素人に佛蘭西語を教ふ。われはその群に近づきたり。會話は甚だ輕く、交ふるに笑謔《せうぎやく》を以てす。セヰルラ[#「セヰルラ」に二重傍線]の剃手《とこや》の曲の爲めに登場する俳優は、乍《たちまち》ち去り乍ち來り、演戲のその心を擾《みだ》さゞること尋常《よのつね》の社交舞に異ならず。舞臺はその定住《ぢやうぢゆう》の地なればさもあるべし。
 サンチイニイ[#「サンチイニイ」に傍線]の云ふやう。吾等は君に難題を與ふべし。譬へば殼硬き胡桃《くるみ》の拆《さ》き難きが如し。されど君は能く拆き能く解き給ふならん。われも猶初めて登場せし時の戰慄の状《さま》を記せり。されど我智は我に祕訣を授けたり。そは閨情《けいじやう》、懷古、伊太利風土の美、藝術、詩賦等、何物にも附會し易きものあるを用ゐ、又人の喝采を博すべき段をば先づ作りて諳《そら》んじ置くことを得る事なりと云ふ。われ絶て此種の準備なしと答へしに、サンチイニイ[#「サンチイニイ」に傍線]頭を掉《ふ》りて、否、そは隱し給ふなり、要するに君の如き怜悧なる人には此|業《わざ》いと易しと耳語《さゝや》けり。
 剃手《とこや》の曲は終りて、われは獨り廣闊なる舞臺の上に立てり。座長《レジツシヨオル》は笑を帶びて我顏を打目守《うちまも》り、斷頭臺は築かれたりと耳語《さゝや》きて、道具方《マシニスト》に相圖せり。幕は開きたり。斯《かく》て此大劇場の觀棚《さじき》に對して立てる時、わが視る所は譬へば黒洞々《こくとう/\》たる大坑に臨める如く、僅に伶人席《オルケストラ》の最前列と高き觀棚《ロオジユ》の左右の端となる人の頭を辨ずることを得るのみ。濃く温なる空
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