ニ》めざりし人と、ゆくりなく浮名立てらるゝときは、その人はそもいかなる人にかと疑ふより、これに心付くるやうになり、心付けて見るに隨ひて、美しくもおもはれ慕はしくもおもはるゝことありと聞く。我が夫人に於けるも亦これに似たるなるべし。前《さき》の事ありしより、我が夫人を見る目は昔に同じからで、その豐《ゆたか》なる肌、媚《こび》ある振舞の胸騷《むなさわぎ》の種となりそめしぞうたてき。
我がナポリ[#「ナポリ」に二重傍線]に來てより早や二月とはなりぬ。次の日曜日はわが「サン、カルロ」の大劇場に出づべき期《ご》なり。其日の興行はセヰルラ[#「セヰルラ」に二重傍線]の剃手《とこや》にて、その末折《まつせつ》の終りてより、我即興詩は始まるべしとぞ掟《おき》てられし。番付《ばんづけ》には流石《さすが》にわが實《まこと》の苗字《めうじ》をしるさんことの恥かしくて、假にチエンチイ[#「チエンチイ」に傍線]と名告《なの》りたり。この運命の定まるべき日の、切《せち》に待たるゝと共に、あるときは其成功の覺束《おぼつか》なき心地せられて、熱病む人の如くなることあり。けふも博士の家をおとづれたれど、われは人々の背後《うしろ》にかくれて物言ふことも稀なりき。フエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]は我が物思はしげなるを見ていふやう。いかに心地や惡しき。われとても同じさまなり。こは火山の所爲にて、この郷《さと》の空氣の惡しくなれるならん。ヱズヰオ[#「ヱズヰオ」に二重傍線]の噴火は次第に熾《さかん》なり。熔巖の流は早く麓《ふもと》に到りて、トルレ、デル、アヌンチヤタ[#「トルレ、デル、アヌンチヤタ」に二重傍線]の方へ向へりと聞く。今宵は激しき音の聞ゆるならん。空氣には灰多く雜《まじ》れり。山に近き處にては、木々の梢皆灰に掩はれたり。巓《いたゞき》の上は黒雲覆ひ重《かさな》りて、爆發の度《たび》ごとに青き※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1−87−64]《ほのほ》その中に立ち昇れりといふ。サンタ[#「サンタ」に傍線]は色蒼く、瞳《ひとみ》常ならず耀《かゞや》けるが、友の詞を聞きていふやう。われも熱に罹《かゝ》れりと覺ゆ。されど日曜日には病を力《つと》めて往くべし。友のためには命をさへ輕んずべし。その翌日《あくるひ》熱に苦めらるゝこと前に倍すとも、そは顧みるべき事ならず。友は嬉しとおもふや、あらずや、そは知るべきならねどなど、心ありげに云へり。
われは日ごとに公苑に往き戲園《しばゐ》に入り、又心安からぬまゝに寺院を尋ねて、聖母《マドンナ》の足の下に俯《ふ》することあり。頬燃え胸跳るばかりなる怖ろしき誘惑に想ひ到れば、懺悔の念|轉※[#二の字点、1−2−22]《うたゝ》深く、志を遂げ功を成さんと欲する大いなる企圖を顧み思へば、祈祷の心愈※[#二の字点、1−2−22]切なり。されど我靈は我肉と鬪へり。わが心機の一轉すべき期《ご》は、想ふに日曜日にあるならん。われは慰藉を得ずして、空しく聖母の膝下を走り出でぬ。
一たび偕《とも》に嚢家《なうか》(博奕場《ばくえきぢやう》)に往かずや、いかなる境界《きやうがい》をも詩人は知らざるべからずとは、吾友フエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]の曾て云ひしところなり。されど友は我を伴ひしことなく、我も亦獨り往かん心を生ずることなかりき。こは見んことの願はしからざるにあらず、心の怯《おく》れたるなり。むかしベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]の我にいひしことあり。汝はドメニカ[#「ドメニカ」に傍線]に育てられ、「ジエスヰタ」派の學校に人となりて、その血中には山羊《やぎ》の乳汁《ちしる》雜れり。されば汝は臆病なりといひき。當時われはその無禮を怒りしが、今思ふに此言は幾分の理《ことわり》なきにあらず。われまことに詩人となりて、善く社會の状態を歌はんには、先づかゝる怯懦《けふだ》の心を棄てざるべからず。わが此|念《おもひ》をなしゝは、夕ぐれに此市に聞えたる嚢家の門を過ぐる時なりき。これぞ我膽を試みるべき好き機會なるべき、自ら博奕《ばくえき》せでもあるべし、後に相識れる人々に語るとも、必ず咎むるものはあらじなど、自ら問ひ自ら答へて、騷ぐ胸を押し鎭めつゝ門に入りぬ。こゝには嚴《おごそ》かなる裝《よそほひ》したる門者《かどもり》立てり。兩邊に燈《ともしび》を點じたる石階を登れば、前房あり。僮僕《しもべ》あまた走り迎へて、我帽と杖とを受取り、我が爲めに正面なる扉を排開したり。
戸内《とぬち》には燈明き室あまたあり。室ごとに大卓幾箇か据ゑたるを、男女打雜りたる客圍み坐せり。われは勇を鼓して先づ最も戸に近き一室を大股《おほまた》に歩み過ぎしに、諸人は顧みんとだにせざりき。卓の上には堆《うづたか》く金貨を積みたり。我目に留まりしは、十年前までは美し
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