閧ト全く排せられ畢《をはん》ぬ。
われ等はサルルスト[#「サルルスト」に傍線]が故宅の前に立てり。博士帽を脱して云ふやう。縱《たと》ひ靈魂は逸し去らんも、吾|豈《あに》その遺骸を拜せざらんやと。前壁には、ヂアナ[#「ヂアナ」に傍線]とアクテオン[#「アクテオン」に傍線]との大圖を畫けり。(アクテオン[#「アクテオン」に傍線]は、希臘の男神の名なり、女神ヂアナ[#「ヂアナ」に傍線]を垣間《かいま》見て、罰のために鹿に變ぜられ、畜《やしな》ふ所の群犬に噬《か》まる。)二個の「スフインクス」(女首獅身の石像)を脚としたる大理石の巨卓《おほづくゑ》あり。傳へいふ、初めこの皓潔《こうけつ》玉の如き卓を發掘せしとき、工夫は驚喜の餘、覺えず聲を放ちて叫びぬと。されど我を動すことこれより深かりしは、色褪せたる人骨と灰に印せる美しき婦人の乳房となりき。
われ等は廣こうぢを過ぎて、ユピテル[#「ユピテル」に傍線]の祠《ほこら》の前に至りぬ。日は白き大理石の柱を照せり。其|背後《うしろ》にはヱズヰオ[#「ヱズヰオ」に二重傍線]の山あり。巓《いたゞき》よりは黒烟を吐き、半腹を流れ下る熔巖の上には濃き蒸氣|簇《むらが》れり。
われ等は劇場に入りて、磴級《とうきふ》をなせる石榻《せきたふ》に坐したり。舞臺を見るに、その柱の石障石扉、昔のまゝに殘りて、羅馬の俳優のこゝに演技せしは咋《きのふ》の如くぞおもはるゝ。されど今は音樂の響も聞えず、公衆の喝采に慣れたるロスチウス[#「ロスチウス」に傍線]が聲も聞えず。わが觀るところの演劇は、緑肥えたる葡萄圃《ぶだうばたけ》、行人|絡繹《らくえき》たるサレルノ[#「サレルノ」に二重傍線]街道、其背後の暗碧なる山脈等を道具立書割として、自ら悲壯劇の舞群《ホロス》となれるポムペイ[#「ポムペイ」に二重傍線]市の死の天使の威を歌へるなり。われは覿面《てきめん》に死の天使を見たり。その翼は黒き灰と流るゝ巖《いはほ》とにして、一たびこれを開張するときは、幾多の市村はこれがために埋めらるゝなり。
噴火山
熔巖は月あかりにて見るべきものぞとて、我等は暮に至りてヱズヰオ[#「ヱズヰオ」に二重傍線]に登りぬ。レジナ[#「レジナ」に二重傍線]にて驢《うさぎうま》を雇ひ、葡萄圃、貧しげなる農家など見つゝ騎《の》り行くに、漸くにして草木の勢衰へ、はては片端《かたは》になりたる小灌木、半ば枯れたる草の莖もあらずなりぬ。夜はいと明《あか》けれど、強く寒き風は忽ち起りぬ。將《まさ》に沒せんとする日は熾《さかり》なる火の如く、天をば黄金色ならしめ、海をば藍碧色ならしめ、海の上なる群れる島嶼《たうしよ》をば淡青なる雲にまがはせたり。眞に是れ一の夢幻界なり。灣《いりえ》に沿へる拿破里の市《まち》は次第に暮色微茫の中に沒せり。眸《ひとみ》を放ちて遠く望めば、雪を戴けるアルピイ[#「アルピイ」に二重傍線]の山脈氷もて削り成せるが如し。
紅《くれなゐ》なる熔巖の流は、今や目睫《もくせふ》に迫り來りぬ。道絶ゆるところに、黒き熔巖もて掩《おほ》はれたる廣き面《おも》あり。驢馬は蹄《ひづめ》を下すごとに、先づ探りて而る後に踏めり。既にして一の隆起したる處に逢ふ。その状《さま》新に此熔巖の海に涌出せる孤島の如し。されど其草木は只だ丈低き灌木の疎《まばら》に生ぜるを見るのみ。この處に山人《やまびと》の草寮《こや》あり。兵卒數人火を圍みて聖涙酒を呑めり。(「ラクリメエ、クリスチイ」とて葡萄酒の名なり。)こは遊覽の客を護りて賊を防ぐものなりとぞ。われ等を望み見て身を起し、松明《まつ》を點じて導かんとす。劇《はげ》しき風に焔は横さまに吹き靡《なび》けられ、滅《き》えんと欲して僅に燃ゆ。博士は疲れたりとて草寮《こや》に留まりぬ。我等の往手は巖の間なる細徑にて、熔巖の塊の蹄に觸るゝもの多し。處々道の險しき谿《たに》に臨めるを見る。
既にして黒き灰もて盛り成したる山上の山ありて、我等の前に横はりぬ。我等は皆|徒立《かちだち》となりて、驢《うさぎうま》をば口とりの童にあづけおきぬ。兵卒は松明振り翳《かざ》して斜に道取りて進めり。灰は踝《くるぶし》を沒し又膝を沒す。石片又は熔巖の塊ありて、歩ごとに滾《ころが》り落つるが故に、縱《たて》に列びて登るに由なし。我等は雙脚に鉛を懸けたる如く、一歩を進みては又一歩を退き、只だ一つところに在るやうに覺えたり。兵卒は、巓近し、今一息に候と叫びて、我等を勵《はげま》したり。されど仰ぎ視れば山の高きこと始に異ならず。一時|許《ばかり》にして僅に巓に到りぬ。われは奇を好む心に驅られて、直に踵《くびす》を兵卒に接したれば、先づ足を此山の巓に着けたり。
巓は大なる平地にして、大小いろ/\なる熔巖の塊《かたまり》錯落として途に横《よこた
前へ
次へ
全169ページ中94ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
アンデルセン ハンス・クリスチャン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング